言葉を発すること、同化すること

TVニュースの司会者は、その分野の専門家に対して「小難しいことをいうな」、「何を言っているのかよくわかりません」と言い捨て、一般視聴者と同化することによって、つまりは第三者へと自分の立場をずらすことによって、自分の無能さを棚上げし、かつ専門家の権力を無効化させる。

私は専門家の肩をもつわけではない。多くの専門家と呼ばれる者たちは、各人が自分でできることを奪い、代行することによってその生計を立てている。そうした専門家はすでに、一般に向けて媚び、サービスを受ける利用者に同化しているのだから、そもそも小難しいことを言わない。司会者が脱権力化したがるのは、社会問題、政治問題、各人がそうした事象に向き合う時に生じる自己矛盾を暴き出し、世間一般に向けて、問題提起しようとする専門家である。そうした専門家に対して、問題を解決する力がないなら黙っておけと言うのである。それが視聴者の共感を生む。そして、自己矛盾が沈静化され、無能な専門家への勝利となるのである。

ここで重要なのは、言葉を発する時に、言葉を発する人が、誰かに言葉を発する時、そこにどのような第三者を呼び込み、自己をそれに同化させているかである。

政府へのデモを批判する人は、単純に政府に自分を同化させていると考えるのは誤りである。それはとても複雑である。政府へのデモを批判する人は、まず、デモ集団を取り囲む警察や、それを傍目で見る市民へと自分を同化させる。そして、警官が危険にさらされながら警備にあたっていることを称賛したり、傍目で見る市民集団に自己を同化し、デモの飛び火が自分に降り注ぐのを過度におびえるのである。

ストライキを批判する人なども、鉄道やモールの運営側に直に、自分を同化させるのではない。つまりは、資本家と労働者の対立に、そのまま飛び込むのではない。まず、彼らは、労働者と自己を同化する。ここでの労働者とは同じように苦しい労働をして生産をする労働者ではなく、その生産的労働の裏面にあたる消費する労働者の側に立つのである。それはストライキのせいで、鉄道に乗って仕事や観光に行けなくなった労働者であり、日常品を買えなくなった労働者である。そうした消費する労働者となってストライキをする労働者に対立するのである。構図はずらされて、労働者対労働者となるのである。

上記のような批判をする者は、デモやストライキを行うものに対して、迷惑行為を持ち出すことができるのである。政府が、国旗損壊罪で不快な気持ちを起こさせる迷惑行為を取り締まろうとするのと、奇妙な共感が伺える。市民の相互監視が政府の権力を増大させるのに好都合であることが、ここ十年で知られて、その知見が活用されている証拠であろう。

ここには問題となっている事象を隠し、陳腐化させる働きがあるのだ。それが迷惑行為というレッテルであり、それを張ることで、その奥に隠れた問題を沈静化してしまうのだ。デモやストライキが問題としている事柄に対して自分も同じような問題を抱えているにも関わらず、それを盲目にしてしまう。

その結果、迷惑行為自体が、国や社会を悪くしているという風潮が蔓延するのだ。そうした敵を、排除することによって、国や社会はよくなると。このような回り道を介して、デモやストライキを批判する者は、国家や運営の側に同化するのである。

なぜ、そうした批判が噴出するのだろうか。それは、自己の権力を、多方の専門家に小売りし、それに依存しているためだろう。その結果、自分が生きるために、必要な他者と、不要な他者の選別が生じ、国家から利益を得る専門家との繋がりを介して、結局は国家や大企業に依存する網目に身体が囚われているからなのである。

ここで、重要なのは、小さな闘争である。国家や大企業との直接対決ではない。それが分断を呼び起こすのは上記のような理由からである。為すべきは小さな闘争の多様体である。それが、国家や大企業からの依存を減らし、助けてもらえる他者と助けうる他者へと開かれるはずである。

雑記
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