内田が自身のブログ『内田樹の研究室』で「後でに回る」と「居着く」について書き始めたのは2025年の3月頃からである。そして、現在も時々これらの言葉はブログ内で見られる。学生に向けた講演の場でよく使う言葉であり、その講演原稿の引用をブログでしている。内田が「後手に回る」という言葉を学生の前で頻繁に使う理由は、学生にとってテストや受験が学生生活の最優先事項となっており、その結果しだいで、つまりテストや受験の後手に回って、自己なるものが形成される状況にあるからだ。
彼らは子どもの頃から「誰かが難問を出す。それに必死になって最適解と思われるもので応じる。採点されて高い点を取るとほめられ、点数が低いと処罰される」という「受験生マインド」を深く内面化しているので、この「受験スキーム」以外でものごとを考えることができなくなっている。気の毒である。
でも、このスキームだと「誰が、いつ、どんな問題を出すのか、どういう基準で採点されるのか」が受験生には開示されていない。そのことが受験生にとってどれほど不利なことかを当の受験生は考えたこともない。
しかし、内田は「後手に回る」ことと二元相対する意味での「先手を取る」ことも良しとしていない。
武道では「後手に回る」ことを咎めるけれども、それは「先手を取る」ことを推奨してのことではない。だいたい、「先手を取る」という言葉自体が「敵」を想定して、それとの遅速という相対的な競争に囚われていることをはしなくも露呈している。その枠組みでしか考えることができない「囚われ」のことを「後手に回る」というのである。
学生は、正誤、真偽、善悪、優劣、美醜などといった二元相対を作り出される環境の中で、自他つまり他者に相対する自己を作り上げていかねばならず、その意味で後手に回って「私」=主体性を作り上げざるをえない。さらには、学校は、個々の先生がその人生経験から出る言葉によって生徒を叱り諭す自由を保護しておらず、世間や国家から求められる言葉を先生の口を介して学生に伝えているに過ぎない。ゆえに学生は、卒業後の人生に対して後手に回って、青春をすごしているのである。青春なるものが霞むのは、青春と二元相対するものが、青春に先んじてあるからなのであろう。
内田は、弟子が師を追うことを、後手に回るとは決して表現しない。それは「修行」が師を追うことに尽きるからである。それは、二元相対する意味での「後手に回る」こととは根本から異なっている。師との無限の距離に向かって只進む修行において、師と自己との優劣はその絶対的な距離のために破壊されている。また同じく師を追う者との優劣にかまっている暇なども存在しえない。一々の出来不出来、勝ち負けに「居着く」ことに囚われないことを意味するのである。仏教では、それを「二元に住むな」と言う。二元に「居着くな」ということでもある。つまりは、私=主体性から自由になることであり、自在心とはその言いである。
ところが、学校における先生の言葉は、師の言葉としては学生に伝わらない。先生が禁止を学生に告げる時、「〇〇してはいけない」と言ったとしても、「〇〇したら罰を受けることがあらかじめ決まっているから、〇〇してはいけない」という言葉としてしか学生に伝わらない。罰は師からやってくるのではない。つまり、師との関係が壊れることではないのだ。この場合の罰は外からやってくる。先生の外、学校の外、フーコーに言わせれば、権力の戦略的状況から到来する呼びかけとしてしか伝わらず、それが学生を「私」=主体性へと居着かせることになる。学校なるものが権力装置として機能し、それが隠されもせず露骨な姿を見せ始めたのが昨今の状況である。
仏教において、二元相対に居着くことは仮の宿に住むことを意味する。そして、二元相対から解放された自在心こそが心の故郷とされているのだ。師との道の中に居ること、そこに「居着く」ことだけが、自己からの「居着き」から解放される道なのだが、学生にはそれが不可能となっているのだ。
内田は、「後手に回る」「先手を取る」という二元相対からの逸脱として「場を主宰する」ことを挙げている。内田にとっては、それが合気道の道場を開くことであった。それは、修行の中から自然と出てきたのであろうと私は想像する。
「場を主宰する」というのは相手より先に自分の方から攻撃するとか、問題を出される前に答えを出すとかいう意味ではありませんよ(それ、無理です)。勘違いしないで下さいね。先後や遅速を競うというのは相手との相対的優劣を競うという点ですでに「後手に回っている」んです。
「場を立ち上げる。場を主宰する」というのは相対的な優劣を競うことを止めるということです。「そんなの無理」と皆さんは思うでしょうね。勝敗、強弱、巧拙だけを競わされてきたんですから無理もないです。それしか生き方はないと思わされてきたんですから。でも、違いますよ。この世にはもちろん競争とは違う生き方があります。それは修行です。
「場を主宰すること」と「修行すること」に、どちらが先ということはないのだと思われる。どちらも、二元相対からの解放だと思われる。私は今、解放という言葉を使った。解放と言えば他力の道、逸脱と言えば自力の道のようにも思われる。
そうした時、私の頭をよぎるのが、私はこの生活=資本主義社会から解放されたいのだろうか?という思いだ。そしてその時必ず、いや、どちらかと言えば逸脱したいと思うのである。常に、資本主義に再領土化、つまりは取り込まれる可能性に晒されながらも、常に、少数派として逸脱しつづけたいと考えている。それが、「場を主宰すること」と「修行すること」においてであるのだ。
だが、問題なのは戦略であろう。資本主義が、逸脱するものをどのようにして、再領土化するかを私なりに理解しなくてはその戦略も見えてこない。最近のブログで、少し詳しく「カスハラ」を取り上げた。「カスハラ」が、資本主義に呼び変えられて生まれた権力の移譲であり、さらには依存と不満でありながら、わずかばかりの抵抗でもある点に私は着目した。カスハラは、資本主義からの無力な逸脱であもあるのだ。この逸脱を、再領土化するのが、世論の盛り上がりと法整備、会社への対策の義務化、結局は、警官や駅員、職員や店員にウェアラブルカメラを取り付けることへ向かうのだろう。
私は、この再領土化を広い意味でブーム(=流行)として読み解きたい。そうすることによって、ブーム(=流行)を、資本主義からの逸脱行為を取り締まり、消し去る資本主義における権力の戦略的状況としても読み解くことが可能になると思われる。そして、その対抗策として、逸脱行為を明るみにし、それを繋ぎ合わせることによって、資本主義への抵抗手段となるのではなかろうか。

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