雑記

うわさ話への無関心とルールへの無関心

「騙されぬ人々は彷徨う(誤る)」というラカンの言説は、騙される者と騙されない者といった単純な二項対立を退ける。そして両者は、現実の振る舞いとしては、騙されているかどうかに関係なく同じ行為をして、多数者となって社会に影響を与える可能性がある。...
雑記

空き家

夜間、住宅街空き家となってもう長いだろう猫の住み着く平屋の群れに、警官が出動し、草木の生い茂る空き家の回りを、胸に下げたベストを上下に揺らしながらトランシーバーを口にあてて駆けていた。近隣の住民は部屋着のまま家を抜け出し、街灯の下で見物して...
雑記

自治と誇りに伴う暴力、非暴力に伴う世間とお客様

私の住む東大阪に隣接する平野が、かつて自治都市であったことを最近テレビニュースで知った。堺が自治都市であったことは有名だが、自分の住んでいる近くの町がかつて自治都市であったことは知らなかったので、とても驚いた。自治都市とは、時の権力のに対峙...
哲学

『物質と記憶』アンリ・ベルクソン 〜その⑥〜

過去の経験の使用は再認と呼ばれ、二通りの方法によってなされる。一つは神経-運動機構として身体イマージュの中に保存された過去によって。もう一つは、自発的記憶という精神の働きを介して、余すところなく保存された記憶イマージュとしての過去によって。...
哲学

『物質と記憶』アンリ・ベルクソン 〜その⑤〜

私のこの身体は、いちばん新しいイマージュである。このいちばん新しい身体のイマージュだけが行為可能であり、過去と未来の真っただ中にある。身体は、過去の経験から得たもの、つまり過去のイマージュを、神経-運動機構として自身の中に保持し、常に押し寄...
雑記

幼い子供に「ありがとう」と言わせること

幼い子供が誰かからものをもらった時、その親は「ありがとうって言いなさい。」と子供に言う。それは、自分のものではないものが、自分のものになったことを教える社会的行為なのだ。もちろん親に悪気はないだろう。しかし、この場合の感謝を教えることは、自...
雑記

私の社会的な敵とは、私の中の多数者である。

フーコーは異常者つまり社会の敵を、怪物、矯正しえぬ者、自慰する者と区分けした。怪物とは、法を犯し、かつ法の存在を危ぶませる者のことである。これは、「死の欲動」が、普通の死とされているもの、つまり現代においては老人ホーム、病院、葬儀社といった...
雑記

熱狂的なサッカーサポーター

欲望とは、他者の欲望である。子が親に抱く反抗心(=欲望)は、ある場合、自らを哀れな者と親に見せることによって、幸せになってもらいたいという親の欲望(子の想像でしかない)に、反抗することによって成り立つ。それが成立する条件として、哀れな自分を...
未分類

Oくんへ

僕たちは鏡同士なのかもしれない。お互いの鏡を通して自分自身には隠されたものが明らかになる。僕の言葉は、君を楽しませるのではなく、君を屈服させるためにあるということを、君は明らかにする。だが、僕は本当に信じているんだ。君を屈服させることが、君...
哲学

「騙されぬ人々は彷徨う」 ジャック・ラカン「テレヴィジオン」から

ラカンはこの言説を自衛のために使用すると言っている。彷徨う理由は、普通に考えれば、正しい道や、正しい答えなどを知らないことによるはずだ。だから彷徨うのであろう。そうであるならば、正しい道や、正しい答えを知っている人こそ、騙されないと言えるは...