『物質と記憶』アンリ・ベルクソン 〜その⑦〜

雑記

純粋記憶は潜在的なものであり、自己を引き寄せる感覚によってでなければ現勢化されない。つまり純粋記憶は、観念のままであるかぎり無力である。ゆえに、感覚から与する印象をたよりに、そこへと自己を物質化していくことによって、力動的となるのだ。物質化された記憶はイマージュ記憶と呼ばれる。それは、対象の持つ感覚的印象に、自己を編み込み二重化したものである。それによって対象は具体的なものへと生成する。具体的なものとは、行為可能なものであり、潜在的行為可能性が素描されたものである。つまり対象は知覚対象となるのである。意識とは対象についての意識であるというのはこの意味である。また、イマージュ記憶が生まれかけの知覚であるというのもこの意味である。

イマージュ記憶は、しかし、感覚へと収斂していくのではない。具体的な知覚というのは感覚の強度を増大していくことではない。具体化されるのは、対象へ働きかけうる行為可能性の増大である。それは言葉で表すならば、「Aとしての対象」「Bとしての対象」「Cとしての対象」……というように多くの〇〇としての対象を束状に知覚することなのである。

「嫌いなものとしての対象」

「嫌いでいると批判されるものとしての対象」

「赤いものとしての対象」

トマトが赤いことはトマトの中にあり、それを嫌うことは子供の中にあり、トマトを嫌うと機嫌を悪くすることは母の中にある、と考えるのは誤りである。

これらは全て、まさに具体的なトマトとして、子供の目の前にあり、知覚対象となっているのだ。

「みんなが可愛いといっているものとしての対象」

「周りに同じようなものが何十何百といるものとしての対象」

みんながグッズを持っている大阪万博のマスコットであるミャクミャクをかわいいと思うこと。マクドナルドの玩具に群がること。一匹のゴキブリを見て、ほかに何十何百と群れが存在すると想像すること。それゆえに、目の前の一匹のゴキブリを叩いて殺せないこと。皆殺しを夢見て、技術や誰かにそれを託すこと。すべての中国人を単一の性質に還元すること。

これら知覚対象が、「〇〇としての対象」として生じるとき、主体はどこに、いかなるものとして存在するのだろうか?

「嫌うということ」は嫌いではない。つまり、嫌悪という感情へと自己を物質化しない。かといって、純粋な観念、つまり思考でもない。それが、具体的な対象の中に宿るのは、いかなる経路と操作を必要とするのか?また、それから自由であるためには、いかにそうした対象に対して、行為可能性を素描できるかによるのだ。

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