断片小説 1

「ありがとう。そやけど、昼休憩の飯食いに来るだけでもカッパ着なあかんのは面倒やな」

定食屋の店主は、昭雄が金を払って店を出ようとした時にそう言った。先日、自転車の傘さし運転の罰則化が施行されたのだった。店主は、昭雄がカッパを着て店に来たのを、店の小窓から見ていたらしい。

「ああ、違うんです。傘狩りにあいまして」

「傘狩り?」

「いや、何でもないです。ただ傘を盗まれただけです」

仕事帰りに寄ったスーパの駐輪所で、自転車の後輪のフレームに挟んでおいた傘が盗まれたのは先週のことだった。車輪の摩擦で黒ずみ、破れて穴から骨の飛び出したぼろ傘を、小雨が降っていたとはいえ、誰が盗むのだろうかと不思議に思った。すると昭雄は、罰則化によって生まれた市民警察が、警察に代わって、傘狩りをしたのだと思った。しかし、すぐに陰謀論は駄目だと想像を打ち消した。陰謀論は、まさにそれが権力に利用されるのだから。それをワクチン接種とマスクの着用義務で嫌というほど経験してきたではないか。それがまた、卑屈となって、ぽろっと昭雄の口から出たのだった。陰謀論は卑屈をまとって反復される。それが権力の効果と知りながら。

「店にビニール傘ならなんぼでもあるで、お客さんの忘れ物やけど、一本持っていくか?」

「いいんですか。ありがとうございます」

「ええけど、捕まっても、ごめんやで」

「大丈夫ですよ。当分は警察も検挙しませんよ。こんな会話を巷に溢れさせることがその目的ですから。最初は捕まらないためにどうするかを話し合いますけど、すぐにルールを守らない人間に対する会話に変わっていき、社会の敵を生み出し、相互に監視させる。それが権力の戦略ですから」

昭雄は一気に喋って、はっと我に返った。店主が大阪・関西万博に何度も通う、生粋の万博フリークだと知っているではないか。いや、知っているからこそ、こんな言葉が出たのかもしれない。

「すみません余計なことを喋って。ありがとうございました」

と言って、昭雄はそそくさと店を去ろうとした。その時、ちらっと店主の顔を見た。店主はぽかんと口を開け、昭雄が振り向いた瞬間、少し目を逸らした。明日から店主が昭雄にずっと距離を置くような気がした。いや距離を置くのは自分からなのかもしれない。言葉は本当に自分より先にあって、自分を拘束してやめない。沈黙とは何のだろうか?

昭雄は自転車にまたがり、行きに着てきたカッパをかごに押し詰め、ビニール傘をぱっと開いた。まだ新しい、汚れのない傘だった。少しだけ自由を取り戻した気がした。しかし、こぎ出すとすぐに、傘さし運転を誰かに見られているような気がしてきた。すぐさま、軽々しき消え去り、重い陰鬱な空の灰色に心は染まっていった。追い越し車がやけに、自分の傍ぎりぎりを通過していくよう思えた。向こうからやってくる老人が、昭雄に向かって「こらっ」と怒鳴るのではないかと思えた。昭雄は、道の端をゆっくりこいだ。やけに風の強い日であった。

小説
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