国旗等損壊罪について

国旗損壊罪が、罰則の対象としようとしているのは、個人所有の国旗の損壊のようである。

学校や公共施設、他者の所有する国旗を損壊させた場合、すでに存在する器物損壊罪で検挙されるため、新たに法律を作る必要がない。このことをふまえると、個人所有の国旗の損壊を罰することは、この法律の本当の効果を隠蔽すために、後づけされた立法事実のように思われてくる。

実際、個人が所有している国旗を、その本人が損壊するような事実はほとんど見受けられない。日本国旗に対して、嫌悪感を抱く人は、そもそも個人所有していない。さらには、日本国旗という物ないしは記号そのものに嫌悪を抱く日本人などほとんど存在しないのである。しかし、そうした嫌悪をいだかないだけでなく、素朴な親しみを持つ人でさえ、日本国旗の特定の使用については嫌悪を抱くのである。それは、分断を煽る政治的使用である。

「日本国旗を愛せ」というならばまだ良い。しかし、「日本国旗を嫌悪する者を嫌悪することによって、日本国旗を愛せ」というのは許せない。日本国旗を物、記号としてそのものを嫌悪する人はほとんどいないのだから、その内実はというと、「日本国旗の政治的使用を嫌悪する者を嫌悪することによって、日本国旗を愛せ」である。結局それは、日本国旗を愛せではなく、政府を愛せと言っているのである。

日本国旗の損壊は、「発話」とみなされうる。それは、「表現」であり、かつ「ふるまい」でもあるということだ。日本国旗の損壊は、日本に対する憎悪発話とされうるのである。

発話には、確認体と行為体がある。「ナフサはあります」という首相の発話は、それが事実を説明する発話である限り確認体である。しかし、その発話が、誰からどういった文脈で発せられるかによっては行為体ともなりうる。むしろ行為体が確認体に寄生するかのようだ。大企業の役員は委縮し、官僚に、ナフサが不足している事実を伝達できなくなる。大阪ガスに努める知人は、この状況を大本営と同じだと嘆いていた。大企業の役員が、国家に進言できなくなれば、その反動は、社内を下へ下へと向かう。そして、中小企業へと波及していく。政府と現場のずれ。しかし、不足している事実は消し去られているのだから、「ナフサはあります」という確認体の発話は嘘ではなくなるのである。ここにおいて、何が大切かというと、個人所有の国旗損壊という事実が多発しているかどうかに関係なく、国旗損壊罪を作ることによって、どういった効果が生まれるかである。

その効果とは明らかである。分断である。存在もしない個人所有の国旗を損壊する人を憎悪する発話が大量に生産され、その結果、本当に個人所有の国旗を損壊する人が出てくるのである。ジュディス・バトラーの言葉を引用したい。

憎悪発話の規制を国家に求めようとするとき、何が起こるのか。またとりわけ国家に訴えることによって、国家の規制権力はどのように増大するのか。おそらくはおなじみの議論だろうが、馴染みではないやり方で論じていみたい。私の関心は、国家の介入に抵抗して市民の自由を守ることだけでなく、法改正の過程で国家に託される独自の言説権力である。

わたしはこの問題に対して、逆説的とも思われる公式を提示したい。だがその公式は、もっとも誇張した場合においてすら、憎悪発話の規制が引き起こす問題に光を当てると思われる。その公式とは、国家は憎悪発話を生産するという物である。しかし、こう言ったからといって、現在人々のあいだで流通しているさまざまな中傷、蔑称、馬頭表現の責任は国家にあると言っているのではない。私が言いたいのはただ一つ、そのようなカテゴリーは、国家の追認がなければ存在できないということである。『触発する言葉』

「私はゲイである」という発話は確認体である。つまり、事実を説明しただけである。しかし、それは同時に、行為体=ふるまいでもある。そして、この発話を「不快なふるまい」とみなし、憎むようになるのは、その背後に国家の追認=黙認が存在しているからなのだ。

罰せられる対象が、嫌悪する対象でもあるかのように仕立てる戦略は、自転車の傘さし運転の罰則化によって徐々に明らかになってくるだろう。それは身体レベルで生じるのだ。自転車の傘さし運転をしている人を見たら、後方から来る車の運転手は邪魔だと思い、傘さし運転をしている自転車のぎりぎりを通過して追い抜くことも生じるであろう。クラクションをならして威嚇するかもしれない。これらは嫌悪の感情ではない。嫌悪のふるまいである。同様に、この身体レベルの嫌悪というふるまいを生みだすことが、国旗損壊罪の目的なのである。それは、国家からの直接の抑圧ではない。国民相互の監視というふるまいである。

多くの日本人は、日本国旗に対して、素朴な親しみを持っているだろう。そして美しいとも思ってるだろう。「日本人」という言葉を親しみを持って外国人に対して使うように、「日本国旗」という記号を私たちは親しみを持って使用している。これが事実である。

日本国旗という記号の政治的使用に対して私は反対し、嫌悪を抱いている。日本国旗は、日本国民の統合の象徴であり、そのために使用されるべきであり、分断のために政治使用されるべきではない。

以上のことからわかるように、国旗損壊罪が成立することによって、日本国旗に素朴な親しみを持っていた人を、国旗損壊へと駆り立てることも生じるであろう。それが政府への反抗として生じても、国家に対する嫌悪のふるまいとみなされて、簡単に検挙されるだろう。

よって、これからの反政府デモは、国旗を損壊すふるまいを当然辞めるべきであり、反政府デモこそ、日本国旗を遠慮がちにではあれ、掲げるべきである。それは、日本国旗への素朴な愛情を政府から奪い返す表現=ふるまいとなるであろう。

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