カスハラと呼ばれる新たに作り出された暴力が、客と店員の立場の強弱によって生じるというのは安易な考えである。さらには、客に対して店員が抵抗できないというのもその原因ではない。どちらも、カスハラの条件ではなく、権力の場が産み出す効果=結果なのである。権力の場に、客と店員が対立する者として生み出された結果なのである。元は、同じ労働者であるはずなのに。ある時は、今回考察するように「カスハラ」という対立によって生み出される場合もあれば、ストライキを行う店や交通機関などで「迷惑」として対立者が生み出される場合もある。どちらの場合も、対立の構図は、資本と労働者から労働者と労働者(=客、利用者)へとずらされている。
カスハラと共に生み出された客は、それは行為をなす主体であるが、その主体はけっして一人ではない。それは多くの客を代表する存在として出現する。店員から見れば、そうした客は一日に対応する数百の客のたった一人であると同時に、たった一人の数百の客でもある。また、「責任者を呼べ」というような言葉からも伺えるように、それは自身が出現した権力の根拠をそこに呼び出す。それは、自分の怒りに賛同してくれる何かである。しかしそれは、現実の店長やリーダーなどではない。それは象徴的な存在である。それは「運営」と呼ばれる抽象的な存在である場合もあれば、時の首相という具体的な顔である場合もある。カスハラ程度の暴力には首相の顔は現れないかもしれない。しかしもっと強度な憎悪を抱く無差別的な暴力が生じるとき、首相の顔が現れる可能性がある。石破の顔ではなく、安倍の顔や高市の顔である可能性が高い。もちろん、首相の顔=形象が現れるのは、個々の市民の苛立ちや対立、マナー違反を仲介する権力を首相が持っているからではない。しかし、むしろそうした中心的な統治権力を持つ中心的な人間が存在しえないがために、そうした統治権力への欲望が幻想となって回帰し、願望を叶えてくれそうな首相の顔への呼びかけが生じるのだ。呼びかけると同時に、呼びかけられ、それと同化するようにして権力の根拠を自らのうちに招き入れ、耐えがたい他者への、罵声や憎悪発話となって現れるのである。法的に罰することのできない他者の腹立たしい振る舞いに対して、こちらも法的に罰することのできない振る舞い、しかし首相に容認されたという幻想を伴った振る舞いによって仕返しする。
カスハラにも以上のことが部分的に当てはまるだろう。権力の根拠とは、自分がそれと同化し、権力を自分の内部へと移植しうるという幻想である。そして、その権力が現実の店長にも宿っており、店長やリーダーと共に店員を懲らしめることができるという幻想でもある。そして、周りの客とも結託しうるという幻想(=国民の総意)である。
現実のカスハラを行う客を、行為の主体=それ以上遡ることのできない行為の開始点として、その人を罰する法律を作ることもできるだろう。また、職員を守ることを会社に義務化したり、世間にそうした客を非難する風潮をつくることもできる。結局は固定カメラ、ウェアラブルカメラによる監視の技術の浸透に落ち着くのだろう。駅員がウェアラブルカメラを胸にかけて駅構内を闊歩する。そんな駅員が親身になって困りごとに答えてくれるだろうか。職務の範囲と範囲外の線引きが、その責任主体を生み出すのである。その主体は、責任を持ちえないがゆえに責任に隷従するという意味での責任主体である。ウェアラブルカメラをにぶら下げた駅員が誰をまず一番に監視しているかというなら、それは駅員自身である。そこから発せられる言葉は権力の言葉である。利用者はその権力の言葉に呼び出されて、駅員を怒鳴るカスハラの主体として生み出されもするのである。どうしてか、権力に呼びかけ、呼び出されているにも関わらず、その権力に隷従することに抵抗もしているからなのだ。権力(=資本主義が作り出したシステム、チェーン店、スマホ決済、無人レジ、宅配サービス、監視カメラ)への抵抗の最も虚しい形態がカスハラというふるまいであり、規制権力のさらなる増大に寄与するふるまいなのである。警官にも同様のことがいえる。お巡りさんと親しみを込めて呼べる日はもう二度とこないだろう。そこには生身の人間はもはやいないのだ。正義感が個人に宿ることはない。いや宿るとも言える。しかし、その時、かつて存在したはずの正義感と現代の正義感の意味はほとんど真逆なことに気づく。かつての正義感とは、個人が、自らの権力によって判断するバランス感覚、公平な振る舞いの権利であったのだ。もはや現代の正義感にそのようなものは存在しない。
こうした結果、権力は抑圧という手段を用いずに、人間同士の対立、相互監視、そして調停する者としての自らの権力を社会の隅々にまでいきわたらせることになる。こうした一連の権力の効果が社会的服従を生み出すのだ。私たちはより良い客となるかもしれないが、より良い客は、より良い資本への隷従者となる場合もあることを忘れてはならない。ジュディス・バトラーの言うように憎悪発話(=ヘイトスピーチ、カスハラなど)の規制を国家に求める世論の風潮が、国家の規制権力をいかに増大させるかに関心を持たなくてはならない。国家介入によって市民の自由がいかに脅かされるか。ことに抵抗する自由が骨抜きにされた結果、さらなる憎悪発話を量産することになりかねない。また、法改正の過程で国家に独自の言説権力を与えることにもつながる。このことは、関連しあい、国家が望み許容する新たな憎悪発話の生産につながるのだ。大事なことは、権力の場にとどまり、警察権力、法権力に頼らず、資本=権力そのものへの抵抗する権力を産み出さなくてはならない。それが唯一のカスハラへの抵抗でもあるのだ。
「国家は憎悪発話を生産する」(ジュディスバトラー『触発する言葉』)
このブログを書こうと思ったyoutubeの投稿がある。それは、「コーポ杉下」というカップルで配信しているYoutubeチャンネルの動画である。動画のタイトルは『Yahoo!ニュースに載ってた気色悪いコメントに反論してみた』である。
彼らの動画はどれも楽しいが、この動画はその中でも特に面白い動画である。教師が指示棒を振りながら授業するように、杉下が包丁を振りながらアンパンマンの世界の欺瞞を説き、カメラを持つ、れなが冷静にアンパンマンの世界の多様性に言及しながら、謎のアボカド丼をつくるところから動画は始まる。若い彼らの強さと未熟さをこれでもかというほど赤裸々に映した記録である。動画の主な内容は、れなが働いていた会社の給料未払いについてや、それを配信した際の視聴者のコメントに対して反論するというものである。どこを切り取っても面白い動画である。その中で、彼らが韓国旅行した時に出会った店員の対応にも触れている。その店員は愛想もなく、レジに商品をもっていくまで、ずっと携帯をながめていた。彼らはその対応に衝撃を受けたという。そして、それを嫌だとは思わず、逆に気持ちが良いと感じたらしい。また別の動画では、彼らが古着屋を好きな理由のひとつとして、不愛想な店員の存在を挙げている。そうした社会の方がみんなが生きやすいとも言っている。そうした場所には、カスハラの主体が呼び出される空気が少しも存在しないのだろう。私もその通りだと思い、とても感心した。それに触発されてこのブログを書いている。
昨今の古着ブームやスケートボードのオリンピック競技化は、古着屋の店員やスケートボーダーたちが持っていた権力の場を奪おうとするところにある。一方は、古着屋店主の孤高さを資本の力で無力化しようとし、もう一方の場合は、スケートボーダーたちの群れの権力を、個々の選手に仕立て上げ、対立する競技者に変えることで。選手同士の友情はマスコミに取り上げられ美化される。だが、果たしてそこにかつて存在したスケートボーダーたちの群れの権力は存在するのだろうか?狼は孤独であると同時に群れを成す。ゆえに、私たちはその存在に惹かれるのだ。私たちは、それに学ぶことによって、国家の文化、つまり同化と権力の移植に包摂されない少数派の権力=カルチャーを構築しうるのだ。この意味で、カスハラを行う客は多数派であると同時に孤立しているのだ。
コーポ杉下の二人が、飲食チェーン店で食事をし、ユニクロや無印、ニトリやイケアで商品を購入し、そうした店でばかり撮影をしているという矛盾はあるのだが、彼らのそうした店への依存と不満がどのような独自の抵抗へと変容していくのかを、視聴者として陰ながら見守りたい。そして、案件や商品紹介などに彼らの恋人の権力を安く売らないで、今のスタイルのまま長く続いていくことを切に願っている。案件や商品紹介に恋人の権力を売ったと同時に、今以上のアンチコメントがその場所に生産されるのは明らかなことである。それが数多のyoutuberの歴史であるのだから。そして、そうしたyoutuberたちが、コロナウイルスの流行以降、政府のスポークスマンになっていったのも事実である。
最後に、ジュディス・バトラーの『触発する言葉』をこの問題に関係する書籍だと思わるので、タイトルだけ紹介したい。そして私も熟読したい。

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