Youtubeチャンネル「コーポ杉下」を視聴して、カスハラについて考える

カスハラと呼ばれる新たな暴力が、客と店員の立場の強弱の差異によって生じるというのは安易な考えである。また、客に対して店員が抵抗できないというのもその原因ではない。どちらも、カスハラの条件ではなく、権力の場が産み出す効果=結果なのである。権力の場所に、客と店員が対立する者として生み出された結果なのである。元は、同じ労働者であるはずなのに。ある時は、今回考察するように「カスハラ」という対立によって生み出される場合もあれば、ストライキを行う店や交通機関などで「迷惑」として対立が生み出される場合もある。

カスハラと共に生み出された客は、それは行為をなす主体であるが、その主体はけっして一人ではない。それは多くの客を代表する存在として出現する。店員から見れば、そうした客は一日に対応する数百の客のたった一人であると同時に、たった一人の数百の客でもある。また、「責任者を呼べ」というような言葉からも伺えるように、それは自身が出現した権力の根拠をそこに呼び出す。それは、自分の怒りに賛同してくれる何かである。しかしそれは、現実の店長などではない。それは象徴的な存在である。それは「運営」と呼ばれる抽象的な存在である場合もあれば、時の首相という具体的な顔である場合もある。カスハラ程度の暴力には首相の顔は現れないかもしれない。しかしもっと強度な憎悪を抱く無差別的な暴力が生じるとき、首相の顔が現れる可能性がある。もちろん石破の顔ではなく、安倍の顔や高市の顔である可能性が高い。権力の根拠とは、自分がそれと同化し、権力を移譲しうるという幻想である。そして、その権力が現実の店長にも宿っており、店長と共に店員を懲らしめることができるという幻想でもある。そして、周りの客とも共謀しうるという幻想である。

現実のカスハラを行う客を、それはその主体の行為であるとして、その人を罰する法律を作ることもできるだろうし、職員を守ることを会社に義務化したり、世間にそうした客を非難する風潮をつくることもできる。しかし、それもまた権力が抑圧という手段を用いずに、人間同士の対立と対立を調停する者としての自らの権力の増大させていることに、私たちは気をとめなくてはならない。こうしたものが、社会的服従の効果であるのだから。私たちはより良い客となるかもしれないが、より良い客は、より良い資本への隷従者となる場合もあることを忘れてはならない。大事なことは、権力の場にとどまり、警察権力、政府への権力に頼ろうとせず、資本=権力そのものへの抵抗する権力を産み出さなくてはならない。それが唯一のカスハラへの抵抗でもあるのだ。

そして、最後にこのブログを書こうと思ったyoutubeの投稿について書こうと思う。それは、「コーポ杉下」というカップルで配信しているYoutubeチャンネルである。動画のタイトルは『Yahoo!ニュースに載ってた気色悪いコメントに反論してみた』である。どの動画も楽しいが、この動画その中でも素晴らしい動画である。素晴らしいというのは、彼らが正しいということではなく、彼らの強さと未熟さをこれでもかというほど赤裸々に映しているところにある。彼らが働いていた会社の給料未払いについてや、それを配信した際の視聴者のコメントに対して反論した動画が主な内容である。その中に、彼らが韓国旅行した時の店員の対応にも触れている。店員は愛想もなく、レジに商品をもっていくまで、ずっと携帯をながめていた。彼らはその対応に衝撃を受けたという。そして、それを嫌だとは思わず、逆に気持ちが良いと感じたらしい。また別の動画では、彼らは古着屋が好きなところに、不愛想な店員の存在を挙げている。そうした社会の方がみんなが生きやすいとも言っている。私もその通りだと思い、とても感心しのた。それに触発されてこのブログを書いている。

昨今の古着ブームやスケートボードのオリンピック競技化は、古着屋の店員やスケートボーダーたちが持っていた権力を奪おうとするところにある。一方は、古着屋店主の孤高さをチェーン店という資本の力ではく奪しようとし、ある場合は、スケートボーダーたちの群れの権力を、個々の選手に仕立て上げ、対立する競技者に変えることで。選手同士の友情はマスコミに取り上げられ美化される。だが、果たしてそこにかつて存在したスケートボーダーたちの群れの権力は存在するのだろうか?狼は孤独であると同時に群れを成す。ゆえに、私たちはその存在に惹かれるのだ。そしてそれに学ぶことによって、国家の文化、つまり同化と権力の移植に包摂されない少数派の権力=カルチャーを構築しうるのだ。逆に、カスハラを行う客は多数派であると同時に孤立しているのだ。

コーポ杉下の二人が、飲食チェーン店で食事をし、ユニクロや無印、ニトリやイケアで商品を購入し、そうした店でばかり撮影をしている矛盾はあるのだが、彼らのそうした店への依存と不満がどのような独自の抵抗へと変容していくのかを、視聴者として陰ながら見守りたい。そして、案件や商品紹介などに彼らの権力を安く売らないで、今のスタイルのまま長く続いていくことを切に願っている。

最後に、ジュディス・バトラーの『触発する言葉』をこの問題に関係する書籍だと思わるので、タイトルだけ紹介したい。そして私も熟読したい。

雑記
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