6月1日 生駒山をハイキングした。前日に思い立ち、久しぶりに登山靴を取り出し、休日の早朝、家を出た。東大阪に住んでいるので、最寄りの駅から登山口の近鉄新石切駅まではすぐである。新石切駅のホームを出て、坂をのぼる。公共アパートのハイツの群が坂に沿って建ち並ぶ。そこを抜けると生駒縦走コースという山道への入り口がある、はずだった。しかし、看板をたよりにそこまで昇ると、入り口には立ち入り禁止のテープが山道への入り口を塞いでいた。仕方なし駅まで戻り、駅前の地図を見直すことにした。その帰路の途中、夫婦連れのハイカーに出会って、通行止めのことを伝えた。しかし彼らは一応行ってみると言って、私の言葉をあまり本気にせず、登って行った。私も自分の今見てきたものや今伝えた言葉が、間違いないことだとは感じなかった。正しさは一つではない。道は一つではない。他の道があるはずだ。そう考えた。途中にあった公園を少し南に行ったところに別のハイキングコースがありそうだった。再び公園まで向かい、そこから、民家のあいだの細い道を抜け、民家のたつ際と際を流れる小川に架かる橋を越え、幾分か広い道へでた。果たしてここがハイキングコースかわからないが、かまわず登っていった。道がなければ引き返せばよい。お地蔵様が数十メートルごとに置かれ、真言宗の寺があり、復元された水車小屋もさらに登ったところにあった。途中の標識でここが辻子谷ハイキングコースだとわかって安心した。次第に民家が減り、空き家のような、古民家や割りと最近建てられたような家屋も散見された。人はすんでいないようで、川沿いに山道よりも下がって建てられているそうしたこうした家屋には、樹木が覆い玄関すらどこなのかわからなかった。しばらくすると、道がふたつに分かれ、そのわかれ道の間に祠が奉られていた。その一方の道が寺を抜けて、生駒山山頂へと向かう、本格的な山道の始まりだった。道は舗装され歩きやすかった。朝の8時をまわっていた。登山に馴れた人が私をちらほらと交わして先を行く、皆かるく挨拶をしてくれる。わたしも挨拶をかえす。日頃忙しく身体を使って仕事をしていても山道で歩をすすめる筋力はまるでないことをしみじみと感じる。静かに佇む興法寺を、持参したカメラで一枚シャッターを切った。境内と山を隔てるものの境としての山道の階段。それを美しいと感じた。

寺を抜けまた暫く登り、
九十九折の山道を黙々とゆく。ほんのり汗もかいてきた。陽はしだいに高くなり、気温もあがっていった。晴れているのに、急に小雨に打たれることが幾度かあった。しかし、木々の薫りを引き立たす、その小雨は、厳しい暑さをまだ感じぬ梅雨入りどきの、この山道においては、気持ちのよいものだった。生駒山スカイラインを縦断できないと知り、帰りによるはずだった紫陽花園のほうから頂上を目指すことにした。
紫陽花園のほうは、道は広いが、木々は高くまた深くあった。ハイカーは誰もいなかった。ふるえる山の声が、舞う風きよらかに、木立はさざめくように舗道のそばで私を山深くへ誘うかのようにゆれている。また雨粒が降り木の葉の鍵盤をぽそぽそとうった。紫陽花の季節には少々早かった。まだ咲いていない。木々のまに晴れ間がまたさし、鳥の音が光の糸の間を行き交う。木々のひと葉は一杯の椀となり、そこへひとつぶ、ふたつぶの滴が輝く。頂上近くの木のべんちに腰かけて、大きく空気を吸う、風をすう、雨をすう、つちをすう、肺からなにやら、歩きつかれて火照った身体のうちで、生きかえす。山頂へとつずく荒い石畳の一本道、側道にに繁る背の高い棕櫚竹の裏の木立で鶯が鳴く。方々のコースから来たハイカーたちがこの一本道で出会い、ともに頂上を目指す。ひとりまたひとり私を越し、短い隧道をくぐり、そのさきの深緑と石段を配した画のなかを皆のぼりながららきえていく。電波塔の先の傾地にある山頂の遊園地。拡声器でのアナウンスや乗り物や家族連れの子供の賑やかな声が聞こえてくる。私は異邦人。しかし俗と聖の対立ではない。登山者はメリーゴーランドに興味がなく、遊園地の客は山道に興味がない。それだけである。決して混じりあわないふたつ俗界が頂上で出会す。いや、出会すと感じるのは、登山者だけか?異邦人という感覚すら、俗のなかでの優越感なのかもしれない。そう感じた。すると、新石切で初めて会った夫婦連れのハイカーに再び出くわした。通行止めの道には、横に側道があり、そこからハイキングコースが続いていたのだと私に知らせてくれた。帰路の安全を互いに願い、言葉をわずかに交わし、すぐに彼らと別れた。持参したカメラのMINOLTA TC1は山道を切り取ることよりも、この幾分古めかしいな遊園地の遊具を撮るのに向いてそうだと感じ、そして私は生駒さん頂上の遊園地でシャッターを数枚切った。家族連れがほとんどだが、若いカップルや外国人労働者の姿もちらほらと伺えた。アルバイトは、若者と定年退職後の年配の方とに極端に分かれていた。この遊園地は、不思議なところだ。天空の遊園地ではない。坂の上や崖の上の遊園地でもない。だが確かにそうでもある。時を間違ってタイムスリップした者のような感覚を、ハイカーは、この入園ゲートすらない、レトロな遊具の集う山頂の遊園地に感じるのかもしれない。私はそう感じた。また近いうちに来させてもらおうと思う。


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