「ソシュールを読む」丸山圭三郎 ~その①~

哲学

ソシュールは、表現と内容は分離できなものだとする。表現には、例えば「身振る」「描く」「彫る」「歌う」「話す」「書く」などがある。表現は芸術に限られたものではない。こうした表現活動において、内容は表現と同時に生まれるというのである。換言すれば、内容を存在せしめるのは表現ということになる。表現とは別の言い方をすれば「シニフィアン」である。内容とは意味するもの「シニフィエ」である。

小学生の日記が、多くの場合、内容が乏しいとされるのは、そこに表現活動がほとんど介入していないからである。「家族でどこどこに行って、〇〇をした。そのあと〇〇をした。そして、〇〇をした。楽しかった。」というように。このような日記に見られる「〇〇した」は、それがレジャーつまりは受動的消費である度合いが多ければ多いほど、与えられたことを楽しむということを意味し、そこには、楽しみ方すらもコード化されており、享受する主体としての私は、そのコードの型にはまるようにするだけでよく、ゆえにいかなる表現作用を排し、小学生の日記に書かれるような表現しか不可能となる。こうした日記は、表現する余地のないものを無理やり表現したというのが正確なのかもしれない。

レジャー、スマホ、ゲームなどが、「読む」という行為に影響を与えることは確かである。まず、こうした活動が各人の表現を不要するからである。さらには、コード化されたものを享受するだけの受動的存在へと常態化されるという、二重の影響である。これは、別の言い方をすれば「後手をとる」ということである。つまり、世界をあるがままにしか受け入れることができず、そこから身体を引き離すことができないということである。こうした影響は、「読む」ことを、書かれたものの中に作者の意図を探すという受動的行為に堕落させる。つまり、作者の意図という唯一の答えがあり、必死にそれを暗号解読のように探そうとするのだ。しかし、本来の意味での「読むこと」は、書かれたものの中に、新しい意味を返すことであり、書かれた内容をより豊かなものにすることであり、新たに生命を吹き込むことなのあである。ゆえに「読むこと」は「書くこと」と切り離せないのであり、表現作用の一つだと言えるのである。

身の回りの風景、鳥や虫や花、自然や社会について書こうとするとき、「〇〇した」という動詞の表現は意味を変える。それは注意を向けることであり、観察することである。それは広い意味で「読むこと」である。言葉を介さない自然などはないというのがソシュールの原則である。つまり自然に注意をし、観察することは、言葉によって世界を差異化することなのである。そしてこうした「読むこと」は「書くこと」と不分離である。その時、観察者の私は、享受する主体ではなく、表現の効果になっているのである。つまり、表現内容であることを止めた私は、書くことによって世界から身体を切り離しうるのである。こうした観察者であり、表現作用の効果である私は、表現活動によって、いまだ存在していない内容を生じさせるのである。「〇〇をして、〇〇をして、そのあと〇〇をした」という消費経済の連続化、「車」ー「ショッピングモール」ー「チェーンの飲食店」という消費の網の目から身体を切り離すためには、言葉の不連続性へと舵を切る必要がある。言語活動=ランガージュがそれである。「車」、「ショッピングモール」「チェーンの飲食店」などの語を、非実体的な関係的存在として扱うこと。消費の網の目を浮き上がらせること。私たちがいかにそれらに関係的に服従させられているかに目を向けること。この世界を差異化することによって、主体そのものが差異化することが必要である。自然、といえども社会といえども言葉によって差異化されて存在している。その配置に亀裂を入れることによって、価値を産む必要がある。生きることそのものが表現=内容であり、美しくいきることもその表現=内容のひとつなのである。

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