「いつもありがとう。そやけど、昼飯食いに来るためだけにいちいちカッパ着なあかんのは面倒やな」
昭雄が金を払って店を出ようとした時、定食屋の店主はそう言った。昭雄が店にカッパを着て来たのを、店主は店の小窓から見ていたらしい。昭雄はその小窓越しに外を見た。外はまだ大雨が降っていた。
「ああ、違うんです。傘狩りにあいまして」
「傘狩り?」
「いや、何でもないです。傘を盗まれただけです」
それは先週のことだった。小雨の降る春の日暮れ時、仕事帰りに寄ったスーパで買い物中に、ハンドルに掛けておいたビニール傘が盗まれた。傘は、ささないときは後輪のフレームに挟んであるため、車輪の摩擦で黒ずみ、破れて穴から骨が飛び出していた。そんな傘を誰が盗むのかと昭雄は不思議に思った。と同時に、自転車の傘さし運転が先日罰則化されたことを思い出した。すると、昭雄は罰則化によって生じた市民警察が、警察に代わって傘狩りをしたのだと思うに至った。しかし、すぐに昭雄はその想像を打ち消した。陰謀論を思考することは駄目だと思ったからだった。陰謀論は卑屈をまとって反復される。それを権力の効果だと日々感じていた。
昭雄は、自転車に乗り小雨を顔に浴びながら、「騙されない者は彷徨う」というジャック・ラカンの書の一節をいく度か呟き、通勤の時に使う産業道路から、街灯もまばらな暗い住宅の集う細い路地へと逸れていった。そして、その間を縫うように、ゆっくりとアパートに帰宅したのだった。
「店にビニール傘ならなんぼでもあんで、お客さんの忘れ物やけど、一本持ってくか?」
「いいんですか。ありがとうございます」
「ええけど、捕まっても、ごめんやで」
「えっ、捕まる!」
昭雄は、店主の思いもよらぬ言葉にはっとした。自転車の傘さし運転と捕まることが、電気が短絡するように通じ合うのは、昭雄にとってこの時が初めてだった。すると、
「大丈夫ですよ。当分は警察も検挙しませんよ。こんな会話やポスターを巷に溢れさせることが権力の戦略ですから。最初は警察に捕まらないために気を遣いあったり、制度への不満を嘆きあったりしますが、そのうちルールを守らない人間に対する憎悪に変わって、社会の敵を市民同士で監視しあう。そうさせることが権力の目的ですから」
昭雄は一気に喋って、はっと我に返った。店主が大阪・関西万博に夫婦で足しげく通う、生粋の万博好きだと知っていたのだ。いや、知っていたからこそ、こんな言葉が出たのかもしれなかった。小柄な店主の奥さんがそそくさと店の奥からビニール傘を持ってきてくれた。
「すみません余計なことを喋って。ありがとうございました」
と言って、昭雄は傘を受け取るとそそくさと店を去ろうとした。その時、ちらっと店主の顔を伺った。店主はぽかんと口を開け、昭雄が振り向いた瞬間に、少し目を逸らして壁に掛けてあるメーニュの方を見た。明日から店主が自分と距離を置くような気がした。いや距離を置くのは自分の方なのかもしれなかった。
昭雄は、店の外にとめておいた自転車にまたがり、行きに着て来たカッパをかごに押し詰めて、ビニール傘をぱっと開いた。まだ新しい汚れのない傘だった。少しだけ自由になった気がした。ところが自転車をこぎ出すと、傘さし運転を誰かに見られているような気がしてきた。軽々しさはひとこぎごとに消えてゆき、重い陰鬱な空の灰色に心も染まっていった。ペダルはとても重かった。
背後から若者の笑い声がしてきた。ずぶ濡れの白いシャツから肌の透ける男子中学生の三人組が、みな必死に立ちこぎで、昭雄をあっという間に追い抜いていった。傘を忘れて大雨に打たれる学生と、大雨に打たれても傘をささない学生では、全く違う光景のように思えた。ずぶ濡れになりながら必死に自転車をこぐ学生は、恥ずかしさや見すぼらしさの中に自由な青春の風を帯びてはいなかっただろうか。もはや彼らにはそれがなかった。しかし、彼らは罰則によってずぶ濡れになることを許されている分、周りの目からは自由で、気楽そうだった。昭雄は遠く雨の中に消えていく彼らの背中を虚しく見つめた。
そのとき、水たまりを蹴散しながらトラックが追い越していった。昭雄はトラックがやけに自分の傍近くを通過していくように感じ、あわてて、傘を傾けてトラックを避けた。向こうから傘にさされたような老人がとぼとぼと歩いて来た。その老人が通りすがりに昭雄に向かって「こらっ」と怒鳴る気がした。昭雄は、道路を横切り、反対の歩道の端をゆっくりと進み工場に帰った。自転車と傘が昭雄の身体を介して、こんなにも不調和に繋がることは今までなかった。それは、大雨と強い風のせいだけなのだろうか。

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