私のこの身体は、いちばん新しいイマージュである。このいちばん新しい身体のイマージュだけが行為可能であり、過去と未来の真っただ中にある。身体は、過去の経験から得たもの、つまり過去のイマージュを、神経-運動機構として自身の中に保持し、常に押し寄せる未来の先端に身構えている。純粋知覚とは、全く精神的行為ではなく、この身体の神経-運動機構が、周りにある他の物質的イマージュと併存し、他の物質的イマージュから行為可能なものだけを求心的につかみ取り、また物質的イマージュの中へと潜在的行為可能性を遠心的に描き出すことを意味している。神経-運動機構が単純であれば、純粋知覚も乏しいものとなり、わずかなイマージュしか神経-運動機構を通過させず、わずかな潜在的行為しか送り返さないようになっている。
過去の経験の使用とは再認である。それは以上のような身体を介した行為として演じられる場合もあれば、神経-運動機構を介さずに、精神の働きを前提する場合がある。
私が公園のベンチに座って本を読んでいるとき、足元にサッカーボールが転がってきた。公園を見渡すと、中央で数人の少年がこちらを見ている。私はベンチから立ち上がり、少年たちに向かってボールを蹴り返した。それがピッタリと一人の少年の足元に届いた。私の学生時代のサッカー経験は、いまだ神経ー運動機構として私の身体に残っており、それが再認されたことになる。私は満足して、またベンチに座り読書に耽った。しばらく時間が経ち、日が暮れかかり、公園には人もまばらになっていた。少年たちもすっかりいなくなっていた。私もどこかのカフェにでも入って読書を続けようと思い、ベンチを立った。公園の出口に向かって歩いていると、公園のフェンス近くの草むらの茂みに、サッカーボールが忘れられたように落ちているのが目に入った。さっきの少年たちのボールではなさそうだった。長らく雨風に打たれてひどく汚れていた。それはある郷愁を私に起こした。かつて自分が、先ほどの少年たちの年の頃、同じように公園でサッカーをした後、忘れて帰ったまま見つからなくなったサッカーボールのことだ。そのサッカーボールにどこか似ている気がした。私は、近づいて拾うという行為をとらなかった。ゆえに、このような郷愁(=記憶イマージュ)が想い起こされたのだ。
「過去をイマージュとして呼び起こすために必要なのは、現在の行為から自分を引き離せること、無用なものに価値を与えられること、夢見るのを欲することである。」
過去が身体イマージュの中に神経ー運動機構として保存されていたために、私はボールを上手に蹴り返した。つまり行為として過去は再認されたのだ。では、私の少年の頃の記憶イマージュはどこに保存されていたのだろうか?もしかして、あの汚れたサッカーボールの中にだろうか?そうではないことは確かだ。あのサッカーボールはかつて私が亡くしたものではない。そうだとすると、私の身体の中か?脳か?いや違う。脳は、あのサッカーボールと同じく物資的イマージュのひとつにすぎず、記憶イマージュを保存する機能を持っていない。脳がサッカーボールと根本的に違うのは、脳は私の身体の内部にあり、神経ー運動機構の中枢をなしていることである。脳は、記憶イマージュと行為の交差点である。しかし、それが記憶イマージュに対してなしうることは、せいぜい交通整理ぐらいのものである。脳は身体が行為へと向かう時、記憶イマージュが往来するのを停止させる。もしくは、ある記憶イマージュだけが、通過できるように限定して誘導する。または、行為を一旦停止させ、数多の記憶イマージュを自由に往来させる。脳は、記憶イマージュを保存する容器でも、それを投射するスクリーンでもないのである。ゆえに、脳が損傷した時に被る実害とは、記憶イマージュの根本的な喪失ではなく、記憶イマージュをいちばん新しい身体イマージュつまり行為へと伝達できないことにある。認知症を見ても明らかなように、記憶イマージュを行為へと伝達できない苦しさが窺える。認知症の方が、睡眠の中、つまり行為を介さない夢の中で、自由に記憶イマージュと戯れて楽しんでいるだろうことは想像に難くない。
「それと気づかれないほど連続的な諸段階を経て、時間に沿って配置された記憶から、その記憶が含む生まれかけの行為ないし可能的行為を空間中に描く運動への移行が行われる。脳の損傷は、これらの運動は冒しても、記憶そのものを傷つけることはない。」


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