欲望とは、他者の欲望である。子が親に抱く反抗心(=欲望)は、ある場合、自らを哀れな者と親に見せることによって、幸せになってもらいたいという親の欲望(子の想像でしかない)に、反抗することによって成り立つ。それが成立する条件として、哀れな自分を親に想像させる必要がある。しかし、現実に哀れな姿を見せてはいけないのだ。哀れな人生を送るとわかっていて、それを自ら選んだということを、すこしも哀れに感じないように、親に見せなくてはならないのだ。つまり、現実に、哀れな姿を見せてはいけないことになる。だから、親に見せるのは、哀れな者になることが確実視されている自己であって、現実の哀れな自己ではないということだ。まさにこの偽りが、罪悪観を生じさせる。その罪を抱え込むことによって、それを償うために子が行うことは、現実に哀れな者になることである。
私は、たまに小学校時代からの友人とサッカーを観戦にいく。彼はサッカーのゴールや秀でたテクニックを見るのと同様に、いやそれ以上に、ゴール裏の熱狂的なサポーターの一塊となった応援に魅了されている。横で一緒に観戦していて、彼の憧れのまなざしが、選手にではなく、熱狂的なサポーターに注がれているその横顔を見るのはつらいことである。もちろん、小学生のような憧れのまなざしを選手に向けていたら、もっと困惑するだろうが。
彼が、彼自身もその一員になりたいという欲望は、しかし、その一員に実際になって熱狂的に応援していることを私に実際に見られないことを、条件にして、私へ向けられている。
私は、彼が地元で応援するチームの専用スタジアム設立の署名をしてくれと私に頼んできた。私は、地元を離れて生活している。彼は地元に残った。私は、サッカービジネスは私たちの地元には必要ないと言ってそれを断った。もちろんそれは嘘ではないが、一番の理由は、設立された専用スタジアムで彼が熱狂的に応援している姿を想像したくなかったことにある。彼が署名を私に迫ったのは彼の欲望である。彼は、熱狂的に応援している姿を実際に見られたくはないが、さらには熱狂的なサポーターであることを直接は言わないが、熱狂的なサポーターであり、それを私が嫌いなことを知りながら、暗示しているのだ。つまり、熱狂的なサポーターの一員となって、一塊となって、拍手し、飛び跳ね、合唱し、ヤジを飛ばす。その姿を、私に想像させたいのだが、その欲望は、私に実際には見られないということを条件にしているのだ。私の署名の拒否は彼の反感を買った。しかし、彼の欲望を満足させたとも言える。
そうした一塊のサポーターが一番自分たちの応援姿を見せたいのは、応援する選手達でもなければ、相手側のサポーターでもない。それは、スタジアムに居合わせた一般的なサポーターである。良いプレーに拍手し、ゴールに喜び、悲しむが、それ以上でない観客のことである。一般的な観客とは、社会における世間を表している。熱狂的なサポーターは、スタジアム内の世間に自分たちを見せたいのである。そして、その一員であるアトムとしての彼は、スタジアムにいなくて実際に彼を見ていない私の眼差しを必要としているのだ。
サッカーサポータのアトム的存在は、形式民主主義における選挙、主権者のアトム性といかに異なるのだろうか。世間への不満を代表する反リベラル的な新興政党に投票することは、いかなる眼差しを必要としているのだろうか?選挙における、リベラルな視線とは、それが反リベラルな視線と対称的なアトム性をもっているため、もはやその眼差しは死んでおり、つまりリベラルな眼差しを反リベラルは必要としていないのだ。しかし、サッカーの熱狂的なサポーターたちは、自分たちと非対称的な世間の眼差しを必要としている。つまり、選挙においては選挙結果によって解消されるものが、サッカーにおいては試合結果によって解消されないということが言える。サッカー選手たちは、そのために存在しているという側面がある。サッカー選手の欲望とは、サポーターの欲望である。サポーターの欲望は、チームが勝ち続けることによって満たされるものではない。それは支持する政治家が選挙で勝利することによって欲望が満たされるのとは異なっている。サポーターの欲望は勝利以上の何かである。
熱狂的なサポーターの迷惑行為が、新スタジアムの設立などのサッカービジネスから生じることを今後考察していきたい。

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