ラカンはこの言説を自衛のために使用すると言っている。彷徨う理由は、普通に考えれば、正しい道や、正しい答えなどを知らないことによるはずだ。だから彷徨うのであろう。そうであるならば、正しい道や、正しい答えを知っている人こそ、騙されないと言えるはずである。だが、ラカンはそうは説いていないような気がしている。騙される人々とは、正しい道や、正しい答えが何かを知らない。それは確かだろう。しかし、一方的に与えられる情報や広告、サービス、専門家の言葉の中に、唯一の正解があると盲目的に信じているという点においては、ある意味で、答えの居場所を知っているといえるのではなかろうか?そのために、一時的には道に迷わないと言えるのではなかろうか。そして、そうした答えや、サービス、ワクチンなど、それを、一度信じて受け取ってしまったからには、もはや、それを疑い、道を引き返すことができないようになってしまうのではなかろうか。
個人的に最近思うことは、一度そういうものを受け取ってしまったら、それを切り捨てたり、自分で修正することができない世界になっているような気がする。それは、製造者の製造の段階においても言えるし、使用者の使用の段階においても言えることである。家、車、電気製品、どれも、一部の故障が、その部品の取り換えでは、修復しえないものになってしまっている。人間自身もそうではないか?それは個人の責任だけではない。
そういう観点からみると、彷徨うことは、正しいとされる道や答えを、意識的、無意識的に避けつづけることを言うのかもしれない。もしくは、自分の選んだ道、答え、習慣に執着しないということなのかもしれない。はたまた、彷徨うことは、騙されつづけているということなのかもしれない。しかし、それを知らないことなのかもしれない。このラカンの言説に、時折舞い戻って、何度も考え直し、このブログのページに追加していこうと思う。(2025年6月10日)
米がスーパーから無くなるという噂がSNSで拡散されるとする。デマの拡散が日常となっている現今においては、それをすぐに信じる人は少ない。しかし、その噂に疑念を抱いている人も、その噂を少しも疑わずに買占めをする人が相当数いることに関しては、意見が一致している。そうした人は、噂を信じた人ではなく、デマを信じたバカとして、自らと対置することになる。そうしたバカがほんとは一人も存在しなかったとしても、こうした想定は存在しうるのだ。噂がデマになるのは、自分が騙されている時ではなく、騙されるバカがいると想定した時である。デマが真実を生むのは、こうした噂のデマ化を前提条件としている。噂に騙されない者は、デマを信じたバカによって米が買い占められるのを恐れて、米を買う。つまり、バカが実際には一人も存在しなかったとしても、バカの存在の仮定によって、騙されない者も、バカと同じ消費行動を行うのである。
「米がスーパーから無くなる」という真実は、デマに騙されるバカによってもたらされるだけでなく、デマに騙されなかった人が誤ることによって生み出されるのである。
ここに第三の者が生まれる。彼らは噂を信じることから、さらに信じないことからも距離をとる。彼らは「噂を信じる人の中にバカを見ない」ことによって、「自らの中にバカを見る」ことになる。つまり、米が買えなくて困るのは、この人たちである。
エアコンに疚しさを抱いている人が、全く疚しさを抱いていない人と同じように、エアコンを長時間利用する。
マクドナルドのハッピーセットにポケモンカードの特典を付けて販売したことによって、大量の食品廃棄を生んだことに怒りを抱いている人が、翌日にはマクドナルドでハンバーガを食べる。
家畜の虐待を嘆く人が、肉を食卓に並べる。
(2025年8月14日)
上記の考察から、真実とは空っぽの場所であることが分かる。真理は、その元来空っぽの場所に産み出されるのである。そして、それに出会うためには、誤まらせられることを媒介にしなくては、遭遇することができないのである。真理が産み出されるとき、私たちはその効果に遭遇する。米不足もそうだが、愛や尊敬などもそうだ。結婚した夫婦の会話に、出会いの印象は悪かった、というものがある。これは相互の誤解が最初にあるといえる。愛というのは、まず隠され、時間とともに自分が気づかされるという形で、遭遇するものなのかもしれない。


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