ランガージュとは、ラング(言語体系)とパロール(発話)の総体である言語活動である。
丸山は、このランガージュによって、主体と世界が相互に差異化されると説く。しかし、その差異化が相互的になされることについての説明は簡素になされているため、少々わかりにくい。そこで自分なりの解釈をしてみたいと思う。主体と世界が差異化されるのはランガージュの結果なのであって、それ以前に、主体(意識)なるものと世界なるものを前提することはできない。それゆえ、世界の外に、不動の一点としての主体(意識)があり、それが世界のあらゆるものを差異化すると考えるのは誤りである。差異化される「もの」としての世界なしに、差異化する「こと」としての主体は存在しない。未分の状態にある主体と世界、つまり「こと」と「もの」はランガージュの存在によって相互に差異化されるというのが正しいのではないか。「まずはじめに言葉があった」という新約聖書の言葉はこのことを言っているのではなかろうか。主体とは、世界を差異化することによって、世界と差異化されるものなのである。ゆえに、この相互差異活動をなす人間は差異の差異と呼べるのではなかろうか。このように見ていくと、人間存在は言葉によって世界を差異化することによって、世界を豊かにし自らも豊かになりながら、それによって世界から差異化(疎外)されることを宿命とすると言えるのである。
事物の名を知ることは、事物を認識することそのものである。例えば、電車の特徴を知りえた後に、それが「電車」という名で呼ばれていることを知ることはない。「電車」という名はその事物に貼られたラベルのようなものではないからである。「電車」という言語表現が行われると同時に電車の内容を知るのである。しかし、電車の内容とは、電車の特徴のいくつか、またはその全てを意味しない。電車の特徴の列挙が、電車の存在の本質を言い当てることができないのはこうした理由にある。名を知る時になされるのは、「電車」と「非電車」の間に亀裂を入れ、差異化することである。この亀裂は、主体と呼ばれる主観的世界の内部、といっても、ここでの主観的世界というのは、客観的世界と対立する非物質的な意識世界のことではない。それぞれ各人が各々のなすランガージュによって差異化されたまさにこの世界のことである。その世界の内部に、新たな亀裂を入れるということが、知るということなのである。
幼児にとって、電車の認識がなされるとき、以下のような差異化が起こっていると単純化して説明することができる。ある幼児の世界にとって「デンシャ」が「うごくもの」であるとすれば、電車は橋やビルといった「うごかないもの」は「非デンシャ」として差異化されている。しかし、その世界が、「うごく温かいもの」と「うごく冷たいもの」に差異化されていないならば、極端ではあるが「ぼく」と「デンシャ」を差異化することは原理上不可能である。世界を「デンシャ」と「非デンシャ」に差異化することは、主体の意識という非物質的なもののうちに、ものを区別する新たなカテゴリーが付加されることではないがゆえに、そうした意識の外に、実体があり、それを呼ぶ名を知るというのが意識活動だと考えるのは誤りである。名を与えることそのものが、そのものの存在を成り立たせるのであり、その言語表現以前に実体としてのものが存在していると考えるのは誤りである。
「デンシャ」とひと言発話すること、それはすでに言語表現つまりランガージュなのである。それは記号表現の一つとされる。記号とは、表現されると同時にその内容が意味されるものである。「デンシャ」という記号はその一連の発話された音とその意味の二重構造によって成り立つものである。記号表現には、発話以外にも、文字、身振り、芸術のようなシンボル化活動も含まれる。これと対となる内容は、思考、概念、意味、情念などとされる。この対の一方を「シニフィアン」、もう一方を「シニフィエ」とソシュールは称する。「デンシャ」という記号が、ものに貼り付けられた名札のようなものではないのは以上のことからも明らかだろう。ゆえに「デンシャ」という記号は、それが貼り付けられる実体のようなものの存在を前提としてそれと対立することはない。「デンシャ」が対立するのは「非デンシャ」という記号なのである。ここでも注意しなくてはならいのは、この「非デンシャ」が電車以外のあらゆる実体を指しているのではないということである。絵画に例えるならば、「デンシャ」という絵が「非デンシャ」という地から浮かびあっがてくるのは、こうした対立関係を前提にしているからである。このことから、「デンシャ」=電車の価値というものが、「非デンシャ」である、「クルマ」=車、「シンカンセン」=新幹線、「ヒコウキ」=飛行機、「フネ」=船といった記号たちとの関係(もちろんこれらは全体のほんの一例でしかない)でしか、価値をもたないことがわかる。つまり絶対的な価値は存在せず、相対的な価値しか存在しないのである。これは、個物の価値というものが、全体からしか決定しえないことを意味する。
個人の価値観とは、各人がいかに世界を差異化しているかによるのだが、それはどこまでも自由というはけではない。ある一つの社会は、それ独自の一つのラングを持っている。ある社会では、価値あるものが、別の社会では無価値であるのはこのためである。「こと」が「もの」に先行しているというのは、各人における主体と世界の関係ではなく、社会と個人の関係を指しているのである。個人の価値観が社会の価値観と切り離せないのは、こうしたラングと各人との関係のためである。以上のことが、差異化能力としてのランガージュの一部であり、構成された構造としてのラングのありようである。
世界を差異化する過程で、「ぼく」と「世界」も差異化される。「ぼくは世界ではない」という言説は、主体と世界の未分化状態から、各人がランガージュによって、世界を差異化することによって、自らを世界から差異化した結果によるものである。世界という地から、ぼくという絵が浮かび上がることなのだ。浮かび上がることは、切り離すことではない。孤立という状態ですら、世界との関係を前提にしている。学校のひとクラスという差異化された部分の中にすら、世界全体との関係が含まれている。学校のひとクラスの中で孤立していることは、全世界から孤立していると感じる感情は嘘ではない。クラスの外にもクラスと同じような構造が世界を埋め尽くしている場合がそうである。ゆえに、クラスの窓から飛び降りるようなことさえなければ、扉から逃げ出しても、はたまた、自分の思考次第で世界は変えられるという自己啓発本を図書館に見にいっても、それだけではラングの構造からは逃れられない。しかし、ランガージュの一部であり「こと」として存在するラング構造に新たな価値を与えることが可能なのもランガージュである。その一部であるパロールについては、次のブログで書いていきたいと思う。
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