ベルクソンの「イマージュ」は、観念論が「表象」と呼び、実在論が「もの」と呼ぶ存在に対して、その存在を両者の中間に当たる存在として捉え直すために用いられた語である。イマージュという語による存在の把握は、日常における存在の把握と何ら変わらない。しかし、常識となっていることを徹底的に見つめ直すためにイマージュという語は使われるのである。
今、私の肘の横にあるグラスに入ったアイスコーヒーのイマージュは、観念論の言うごとく、私の精神の中にのみ存在する表象ではない。また、実在論の言うごとく「もの」そのものとそれが精神に現れる「表象」とを分離し、アイスコーヒーの色や香り、その他諸性質は「もの」の中に独立して存在し、それが精神に「表象」として現れる時には、すでに精神独自の諸規則に従って変換を被っているために、それ自体は不可知である「もの」とも異なる。
本を読む間にひと休みしようとして手にするアイスコーヒーと、本を読んでいる最中に想像する肘の横に置いたままのアイスコーヒーとは、前者が私の身体の外にある「もの」で、後者が私の身体内部、つまり脳内に現れる「表象」ではない。アイスコーヒーは、ひとつのイマージュにおける現れの違い、別言するならばひとつのイマージュが関係するシステムの違いである。
現れの違いについては後述するとして、ところで、ベルクソンが物質と呼ぶのは、イマージュの総体のことである。すると「物質の知覚」というのは、普通に考えるならば、ひとつの知覚対象が脳の神経細胞を介して表象として精神に現れ、それを別の表象と精神の内部で並置し、想像の力を借りて、より遠く、より多く、果ては宇宙全体にまで拡張することのように思われる。そのとき、表象を何らかの仕方で生み出し、それを投影する映画館のようなものを脳の中で働く精神の役割に帰すことになるだろう。しかし、この常識を見つめ直すならば、脳のイマージュはイマージュの総体の中にあるのであって、その逆ではないことは容易にわかる。
「私が脳内振動と呼ぶところのイマージュは、もしそれが外のさまざまなイマージュを生み出せるというのなら、何らかの仕方で外のイマージュを含んでおり、この〔脳内部の〕分子運動の表象の中に物質的宇宙全体の表象が含み込まれているのでなければなるまい。しかるに、こう述べてみるだけで、命題が不条理であることなのはもう十分に明らかだろう。脳のほうが物質界の部分なのであって、物質界が脳の部分をなしているわけではない。」
イマージュの総体の中にあって、わずか砂粒のような私の脳のイマージュに、イマージュの総体を投影する条件が備わっているはずがない。イマージュの総体とは外部を持ちえないのである。あるひとつのイマージュは、それがどれほど大きかろうと、また別のイマージュに対して、その中にある、または、その外にあると言うことができる。内在性も外在性も個々のイマージュ間の関係である。ところが、イマージュの総体については、それが脳の中にあるか外にあるかを言うことはできない。そのため、私の脳のイマージュは、イマージュの総体を内部に持つことが論理的に不可能であり、現実的には、イマージュの総体の中にわずかな位置を持ち、その内部で限られた特定のイマージュと関係をもつにすぎないのである。
この特定のイマージュとの関係こそが知覚と呼ばれるものである。知覚は、私の身体を中心にして、潜在的な行為可能性を投影できるイマージュとしか関係できない。私は、アイスコーヒーの中の分子イマージュを持ちうる。また、それを飲めば脳内神経のイマージュが興奮状態を生むことをイマージュとして持つ(=知っている)。しかし、純粋な意味での知覚は、アイスコーヒーの分子と直接に関係をもつことはない。知覚は身体の行為可能性を投影しうるイマージュと繋がりあうことしかできないのであって、分子レベルのものは、行為可能性の次元とは別の次元にあり、その現れがそもそも違うのである。物質の知覚とは、それゆえ、身体の潜在的行為を投影しうる特定のイマージュと脳イマージュを中心にした身体イマージュとの関係だと言える。このように、知覚しうるイマージュは非常に限定されてしまうわけだが、私の身体の体調変化の知覚は、遠く夜空に浮かぶ月の公転とも関係していることを忘れてはいけない。
「われわれの知覚はただ単に脳という塊の分子運動にばかり左右される、と言ってはならない。知覚はそれらの分子運動に左右されはするけれども、それらの運動自体もまた物質界の残りの部分に不可分な形で結びついている、と言うべきなのだ。」
私の脳のイマージュは、今、文字を書いているペンと用紙、そして、視覚器官や手などのイマージュと緊密に関係している。しかし、今書こうとしている文章の内容が脳のイマージュの中にあるとするのは間違いであるだろう。今述べた通り、脳のイマージュとは、所詮、知覚のフィードバックを介して、潜在的な行為の素描を描き続けるにすぎないからである。
今、文章を書いている最中の、眼の神経細胞を切断すれば、私の文章を書くという運動イマージュは崩れ去って失われてしまう。しかし、眼が見えていようが、見えていまいが、紙やペンや私の手などのイマージュは失われることはない。それらのイマージュは、私の行為に関係づけられる限りは、一変し、それまでのように連携しあって文章を生み出せなくなってしまう。特に重要なのは、ベルクソンの『物質と記憶』の各ページを参照できなくなることであり、この書評も未完成になるだろう。しかし個々のイマージュ、つまり自己自身に関係しているイマージュは、紙やペン、『物質と記憶』という歴史的名著としては不変なままである。これは、イマージュが、「もの」と「表象」として存在しているからではなく、異なる二つのシステムに関係づけられていることに由来する。つまり、私の身体に関係づけられたシステムにおいては、神経の切断によって一変するイマージュも、それ自身に関係づけられたシステムにおいては、イマージュは不変なままである。前者のこの上なく可変的なシステムを「意識」と呼び、後者の相対的には不変なシステムを「科学」と呼ぶことが便宜上許されるであろう。もちろん両システムは互いに独立してはいない。このことは、イマージュが、「もの」や「表象」として常識において把握されるよりも根本的に、「こと」つまり関係として存在していることを指し示していると言えるだろう。
コメント