「しんしょう しんしょう」
私は小学校で流行っていた「しんしょう(=身体障害者)」という言葉を家に持ち帰って、喧嘩して腹が立った妹にぶつけた。
田舎にある、小さく、落ち着いた小学校に、私は通っていた。一つ上の学年に、脚の筋力がなく車いすで生活している生徒がいた。「しんしょう」という言葉が学校で流行っていたけれど、誰かがその人に対して「しんしょう」という言葉を浴びせたのを見たことはなかった。身体のどこかに欠陥があり、普通ならざることの象徴として、その人が存在したことは否定できない。しかし、「しんしょう」という言葉は、むしろ、太っていること、容姿が不細工なこと、頭が悪いこと、運動ができないこと、汚らしいこと、といったような明らかな人間の機能上の欠陥にではなく、同一性の中にある小さな差異に敏感に反応し、他者を貶め、優越感に浸ろうとして使っていたように思う。だから私は、他者と自分を常に比較し、他者の落ち度によってしか自分を肯定できず、逆に自らの落ち度をひどく恥ずかしくも感じていた。
そんなある日、家で妹と喧嘩をした。理由は思い出せない。些細なことであったと思う。殴ったり、蹴ったりもした。しかし、それでも満足せず、怒りは収まらなかった。
「しんしょう しんしょう」
部屋の角でうずくまって泣く妹に、おどけた口調ではなく、上からあざ笑うように私はその言葉を放った。妹の普通との差異、低い声や容姿のことに、いら立ちの矛先を向けざるをえなかったのだと思う。妹はずっと泣いていた。
母は台所でこちらに背を向けて夕ご飯を作っていた。喧嘩にはもちろん気づいていた。しかし、喧嘩はいつもある程度のところで終わりを迎えた。妹が母のところに逃げて行って、縋り付く。私は別室に行って布団にくるまり一人すすり泣く。だから、母は今回も何も言ってこないだろうと思っていた。
ところが、母は急に私に近寄ってきて
「しんしょうって言われな」
と言った。私のすぐ傍で真上から見下ろし、顔を真っ赤にして、眼鏡の奥にある瞳はおびえながら、また口は震えながら、しかし怒りを込めた強い口調で言った。
その言葉は雷のように私の身体を貫き、大地に消えていった。その言葉は、私に衝撃をあたえたが、私を死へとは導かなかった。ただ、それは大地に広がり、消えずに帯電したのだ。その言葉によって、死ななかったということの意味は、学校の友人や先生、母や父、妹に対する私の態度を、何も変えなかったからだ。むしろ、私を「意地」という石のように固いものへと成したように思う。だが、その言葉は、大地に帯電しつづけ、意地に凝り固まった人間の歩みを導いていった。この薄情で、冷淡な人間の歩みを。そして、今でも生かしてくれる。
私を怒ってくれた先生がいた。小学校の五、六年生のクラス担任の河内先生である。当時の先生くらいの年に、今私はなったと思う。河内先生は女性であるが、男性的でもあった。先生は都会的でもあり、田舎的でもあった。さばさば、はきはきした喋りでクラスを盛り上げると同時に、各人には優しく柔らかい声で接しもした。どこか遠くにいる大人のようであり、近くにいる友達のようでもあった。三、四年生のクラス担任である太陽のような笑顔で一人一人に微笑みかける二宗先生とはまた違う距離感を持っていた。
先生は、私が友人を、今では思い出せないがその友人が一番嫌がるであろう言葉で、侮辱している場面に出くわし、私をすごい形相で怒った。私は自分の本質を知っている人間ではない。しかし、その知らないものを、そしてそうある自分を、人生のうちで何度か見抜かれた人間である。そして、この見抜かれたことが私にとっては大切なことだと今になって気づいた。見抜かれることは、見られることとは全く違う。見ることは、改善を促す。見抜くことは、導くことだ、自分の方へ、決して強いることなく、むしろ突き放すように。母、河内先生。少年の頃に私を見抜いてくれたのはこの二人だと思う。先生はお元気にされているだろうか?
ブログの文章にすることは、感謝を伝えるためでも、人生を美化するためでもない。記憶を修正するためだ。私の歩む残りの人生の地盤を強固にするためだ。自分の足で、自分の力で、私を見抜いてくれた人と同じ道を歩むために。

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