うわさ話への無関心とルールへの無関心

「騙されぬ人々は彷徨う(誤る)」というラカンの言説は、騙される者と騙されない者といった単純な二項対立を退ける。そして両者は、現実の振る舞いとしては、騙されているかどうかに関係なく同じ行為をして、多数者となって社会に影響を与える可能性がある。このことは、以前のブログで考察した。ネット上のうわさ話が、デマから真実に変わるのは、騙される人が多いという理由だけではない。騙されない人が誤ることによって生じるのである。騙されない人は、騙される人がある程度いることを想定し、自分が騙されないだけでなく、騙される人の振る舞いによって、自分が被害を被らないように振る舞う。その結果として騙される人と同じ行動に駆られ、騙される人と共に多数者を形成することによって、デマは真実となるのである。

そして、第三項として生じるのが、うわさ話という、デマか真実かよくわからない言説に無関心で、騙される他者を想想定しない人、つまりデマを信じるかどうかに無関心な人たちである。しかし、この第三項の人たちもまた、うわさ話が産み出す真実、多数者の行動、例えばトイレットペーパーの不足やコメ不足といった消費行動から影響を受ける。もちろん、無関心であるため、被害を被るとは意識しないだろうが、影響は受ける。むしろ一番影響を受けるのはこの人たちである。この第三項の人たちを、デマを信じる人(=バカ)、デマを信じる人(=バカ)を想定して誤る人と区別して、バカを外界に観ないことによって、バカを自分自身のうちに見る人と言いうるのである。昔からにある「馬鹿を見る」という慣用句は、以上のような構成をもっているのである。

私にとって重要なことは、この無関心をどこまで貫き通せるかである。私は、馬鹿を見たとしても、バカを見ない。いや正確には、他者をバカなどと呼んで、自分と区別しない。それによって、社会が分裂するのを少しでも防ぎたい。とはいえ、少数者であることによって。

マイナンバカードやコロナワクチンに反対した人の多くは、この第三項の人たちである。はじめから、マイナンバーカードやコロナワクチンの裏にある陰謀を信じていた人ではない。そうした政策に無関心であり、それを貫き通すことだけを望んだ人である。しかし、国家は、マイナンバーカードを持つ人やコロナワクチンを接種した人に優遇を与え(ポイント付与や出入りの自由)、持たない人に不利益(保険証との紐づけや出入り禁止)を与え、社会を分裂へ導いた。国家は分裂の種を撒くことによって、管理を容易にする。社会の分裂は、国家の管理と消費行動の一元化に好都合であり、大企業もそれを望んでいる。

この第三項の人たちは、陰謀論を信じる「バカ」ではなく無関心を貫き通せなくなった人たちである。マイナンバーカードやコロナワクチンに反対するのは結構だが、それによって不利益を被るのはあなただよという政府のやり方は、許すことができない。無関心を貫き通せなくし、社会の分裂に舵を切った国家への不満が、この無関心な人を反対派にさせたのである。分断を導いた国家が、好都合な一方だけを優遇するという政策への怒りが、結果的に、無関心な人を反対派にさせた。

無関心を貫き通せなかった人は、陰謀論を信じる「バカ」となったのではなく、陰謀論を信じる「バカ」と騙されない人に想定されたのである。もちろん、無関心を貫き通せなくなった結果、しかたなく対抗手段として陰謀論を信じるようになった人が多くいたことは事実であるが、初めから陰謀論を信じたわけではない。その結果、賛成派と反対派の対立だけが話題となり、エスカレートし、無数のうわさ話を出現させることによって、マイナンバーカードの真実やコロナワクチンの科学的安全性や効果は検証されることがなくなった。国家の陰謀を信じるバカを批判し、陰謀論に騙されない人たちも、それによって科学的な知見を共有することを不可能にしてしまった点では、誤っているのである。その結果、陰謀論を信じないこれらの人もまた、陰謀論を信じたバカ(陰謀論の元となった政策に無関心でありたかった者たち)と共に、多数者を形成する。この多数者は、意見の違いを持ちながら、知を強化していく集団ではない。この多数者は意見の相違によって弱体化し、国家に依存する者たちの集団である。

この結果、国家に利益を与え、社会に不利益が生じることになった。陰謀論はデマだとしても、結果的に社会を分断したいものの欲望を叶えているのだから、陰謀論=デマが真実へとなったと言えるのである。事実はどうであったのかを、もはや自分たち集団の知として、手に入れることができなっくなった時、個人の無力感が逆説的に生じるのだ。その時、国家に依存する事態や、専門家の意見を鵜呑みにするような者たちが、結果的に多数者となり、扇動されていくのだ。

無関心でありつづけることの難しさ。無関心を放棄せざるをえなくなった時の、安易な振る舞いが、結果的に自分を多数者へと変えることは、意識しなければならない。意識的無関心ということを今後考察しなくてはならないだろう。

少し話を斜めにそらし、ルールというものを見ていくことにする。別段意図があるわけではない。しかし、うわさ話がデマから真実になることと、ルールを守ること、守らないことに関係がありそうだという予感を最近抱くようになった。

ルールの周りには、守る者と守らない者だけがいるのではない。この二者の対立だけに注目するならば、ルールを作った者の思うつぼである。ルールに無関心な人もまた、大抵の場合はルールの中で行動している。

ルールを守る人は、その中に意識的に守る人とルールに無関心であるがルールの中で行動する人にわかれる。さらに、意識的にルールを守る人もまた二つに区別できる。ルールを順守し、ルールに隷属する人がひとつである。もう一つは、ルールの範囲内で、自分の利益をひたすら躍起になって求める人たちである。この人たちは、ルールを守らない人と限りなく接近している。逆に、ルールを順守する人からは遠い存在である。しかし、この人たちは、ルールを守っているか、いないかで大別するなら、ルールを守っている人に属する。

以上のことから、以下のように分類できる

1、ルールを守らない人

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2、ルールを守るが、ルールの範囲内でひたすら利益を追求する人(=社会的服従と呼びたい。けっしてルールから自由になれない)

3、ルールを順守し、隷属する人

ルールに無関心な人は、たいていルールを守る人の側にいるが、それは雲のように1,2,3の人の上空を漂っている。

1と2は非常に近い存在である

2と3は非常に遠い存在である

3と1はさらに遠い存在であるが、あるとき突然通路が開けて、両者が最接近することがある。

ルールを守るものが、守らないものを批判する時、1と2は結束して、ルールを守らない者を批判する。ルールに力を与え、ルールを管理する者への依存を強めるのは、ルールを守らない「迷惑行為をする者」の存在だけではない。

ルールを強化し、迷惑行為が生じる場を形成する力は、ルールを守る人の中にあるのだ。それは、ルールの中で利益をひたすら追求するものと、ルールを極端に順守し隷属するものの間の対立である。

ルールを極端に順守する者とは、ルールから利益を引き出そうと躍起にななる人の脱落者なのである。それによってはじめて存在する。ルールを順守する脱落者の不満は本来は、ルールの中で利益を追求する者への不満なのである。しかし、彼らを批判することはできない。なぜならば、ルールを守ってやっているからである。ゆえにルールを順守する者の怒りの矛先は、ルールを守らない人へ向かうのである。はじめからルールを守らない人に敵意を持っていたわけではないのである。

「ルールを順守する者」となることによって「迷惑行為をする者」を批判するのであるが、それは自分が「足を引っ張る者へとなる」不安からなのである。この不安は、絶えず自分を、批判する立場である「迷惑行為をする者」への引力となる。

ルールを守らない者は、ルールを守る者への反発である。しかし。それはルールへの無関心ではない。ルールへの強い依存関係を維持している。しかし、単なるルールへの依存ではなく、ルールを作り出す者への依存、同一化を維持しているのである。

以上が、ルールの簡単な考察である。ルールの中で生きる限り、以下の構成要素とならざるを得ない。ルールに無関心な人が、ルールから影響を被るのは必然であり、無関心でいつづけることはできない。

しかし、ルールに力を与え、迷惑行為の温床となる、国家や大企業への依存を減らさない限り、私たちはルールに力を与え続けることになり、「足を引っ張るもの」になる不安を抱き続けなければならない。

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