私の社会的な敵とは、私の中の多数者である。

フーコーは異常者つまり社会の敵を、怪物、矯正しえぬ者、自慰する者と区分けした。

怪物とは、法を犯し、かつ法の存在を危ぶませる者のことである。これは、「死の欲動」が、普通の死とされているもの、つまり現代においては老人ホーム、病院、葬儀社といったものを根絶することであり、普通とされている死を危ぶませるのと同様の構造で、怪物は、社会が正しいと疑わない法を、不安定なものにするのである。

ジジェクは、「敵とは自由選択し、誤ったほうを選択したとされる主体のことである」としている。社会は、主体に選択の自由を与える、しかし正しいほうを選ぶという条件付きで。なぜならば、すでに属して、そこで生まれた社会さえも、一瞬一瞬、主体がその社会に属することを自由意志によって選択していることにある。自分が属することを選んだ社会であるのだから、それに従うのは当然であるとする論理である。日常においては、この論理が意識にのぼることはない。意識に生じるのは、すでに選択した人たちの、暗黙の了解が、考えることもなく実践されている状態である。これを文化と呼ぶこともできる。考えることもなく実践される文化が、いかにして敵を作り出すのか。それは、暗黙の了解を誤るだけでなく、その誤りを矯正する見込みがないときである。暗黙の了解を了解しうる可能性というのは、ゆえに暗黙の了解よりも文化の深層であるというるのではないか。暗黙の了解の了解可能性を壊すものが、異常者であり、社会の敵である。しかし、壊す者は、壊れかけのひびの間から生じてくる膿のようなものではなかろうか。

私は、社会の敵を、怪物と矯正しえぬ者の掛け合わせとしての「迷惑行為をする者」として捉えたい。迷惑行為をする者は、社会の何かを暴露するもののことである。彼らは、消費社会の依存者であり、かつそれに不満を抱く者である。それが、過剰成長した道具を介して、その中で迷惑行為をするのである。過剰成長した道具とは、スマホ、SNS、チェーン店などが例である。彼らは、その中に、どっぷりとつかりながら、不満を抱き、そのシステムに異常を来そうとする。迷惑動画の拡散、カスタマーハラスメント。

彼らは、システムの中の、何かを存在根拠として、何かが自分の味方だと思う根拠をもとに、迷惑行為をする。それは、彼らの中に想定される、共感してくれるだろう者たちである。しかし、彼らは必然的に誤るのだ。そして、見せしめとしての迷惑行為をしたものとして明るみに出される。彼らの共感してくれると想定する主体とは、迷惑行為を被る側の中にある対象である。その対象は第三者と呼ばれる象徴界のものであろうか?のちに考察したい。

私は、「迷惑行為をする者」の他に、「足を引っ張る者」も後に考察してみたい。両者は、少数者であることについては同じであるが。明るみに出るか、それか潜在的なものとして想定されているかの違いがある。彼らは、多数者に何かを暗示している。

私が敵とみなすのは、常に私の中にいる多数者である。

雑記
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