僕たちは鏡同士なのかもしれない。
お互いの鏡を通して自分自身には隠されたものが明らかになる。
僕の言葉は、君を楽しませるのではなく、君を屈服させるためにあるということを、君は明らかにする。
だが、僕は本当に信じているんだ。君を屈服させることが、君自身が抑圧しているものを明るみにし、それと君が対峙することによって、君を良い方向へ変化させると。
だから、僕は自分の言葉が嫌いになっても、君を助けられると信じているから、自分の言葉を嫌うことが、すなわち自分の言葉を愛することになるんだ。こんな肯定の仕方が、間違っていると言葉にするのは簡単だ。しかし、そのとき、沈黙か、消費の話か、どちらかを選ばなくてはいけない。
小学生のとき、
僕と君は喧嘩をした。学校の前の田んぼのなかで。周りには同級生がたくさんいた。
君は僕の貧弱な拳で、鼻血を流した。その傷は鏡に僅かなひびを入れただけで、破壊することはなかった。
三十年後の今も私たちの間には鏡が存在する。
あの時、クラス中の皆が君を変なあだ名で呼んでからかっていた。僕はそんなあだ名でからかうのは、生ぬるいと感じ、君が一番嫌がると知っている言葉を君に浴びせた。それがどういう言葉だったかは、覚えていない。その言葉は僕に隠されている。ただ、君を本当に嫌っていたことだけは確かである。それは君が僕の鏡だからであったと、今ではわかる。それに、しびれを切らした君は僕にとびかかってきた。みんながいる前で、僕にだけ君は怒りを向けた。ただ、少しだけ、僕のほうが力が強かった。
あの喧嘩を境に、君を嫌うために、君の嫌がる言葉を使うことは、なくなった。
だが、それからつづく長い付き合いのなかでも、会話の途中で君の嫌がる内容の会話は手に取るようにわかった。僕たちは、お互いを傷つけないために、消費の話をした。映画の話。グルメの話。サッカー観戦の話。ファッションの話。消費の話だけが、安全だった。それなりに楽しくもあった。しかし、安全な会話だけでは、時としてつまらなくなり、会話のところどころに、君の嫌がるだろうとわかりつつ、知的な会話を折りこんだ。
この三十年間、離れて生活していた僕たちは多く会う間柄ではなかった。にもかわらず、毎年必ず、一、二度は会っていた。僕たちは何も変わらなかった。良くも悪くも。
僕はこの三十年間、自分を肯定するために、君のことを心配するふりをしていたのではないだろうか?
もしくは、あの小学生時代の罪悪感を、偽るために君を心配しているのではなかろうか?
先日、君にかけた言葉がそうだ。
最近、君がyoutubeをきっかけにして政治に興味をもったと僕は知った。そして、君が支持しているという若干排外主義的な新興政党に、君の社会に対する劣等感、会社への不満、
いや、インテリぶって多少言葉のたつ目の前の僕に対するの挑戦を感じた。
僕は、政治家の話をすることで、君のなかに渦巻く真に政治的な、だか抑圧された感情に、触れようとした。しかし君の反感をかった。
君は、こんな感じになるから政治の話は金輪際したくないし、聞きたくないといった。
たが僕は、それは君が抑圧するものを明らかにし、それと折り合いをつけるために、真に政治的にならないといけないといった。
政治家や政治家の話をすることで逆に隠蔽してしまっている、真に政治的なところに触れるために
そして、僕は長年言いたかったことをついに言った。「消費に逃げては駄目だ」と。
だが、僕の言葉は半分正しく、半分間違っているだろう。
君が消費の話にふけるのが、僕たちのためだったことを否定したのは、間違いなく、僕の間違いだ。君は僕を消費のほうへ勧誘し、一緒に楽しもうと本当に思っていたのだから。僕を楽しませようとしてくれたのだから。
僕は君を楽しませようとしたことがあっただろうか?
僕が楽しいことを、君が楽しめないことは知っていた。哲学のこと。家具制作のこと。ギターのこと。だから、君が好きな消費のことに、話を合わせることだけが、僕の消極的な、君への恩返しのつもりだった。
君の消費に話を合わせているのに、その裏で消費が君を駄目にすると思っているのだ。僕は何と罪深い人間だろうか。
そして、君のことを本当に思うことと、自分への同一化を、混同させているところに、自分の誤りがあった。君の鏡の中に見ていたのは自分自身であったのだ。
しかし、政治の話をしなくてはいけないことも確かだ。政治に影響されず、お互い孤独であり、通じあえないにも関わらず、助けあうために。これからの、そして僕たちにとって最後の三十年のために。
僕たはお互いを照らす鏡なのかもしれない。それは違いを写す鏡だ。誤解を通じて真実を照らす鏡だ。
「あの政党がよい、あの政治かは駄目だ」という話は、真に政治的なものを隠蔽する。君とは二度とこんな話はしない。なぜなら、そのことが、自身が抑圧している社会への不満や会社や家庭での辛さを代理表象し、それを一時的に発散させることによって。真に政治的主体となることを隠蔽するのだから。
排外主義的新興政党が台頭したことの意味は、彼らが手に入れた政治権力によってこれから何をするかではない。排外主義的新興政党が議席数を伸ばしたこと自体が彼らの政治的行為の全てなのだ。
ニュースは大災害や有名人の話を垂れ流しつづけることによって、私たちが本当に必要な繋がりや、情報を無力感によって隠蔽する。新興政とうの台頭は、私たちが各人が各人なりの政治的闘争をすることを、偽の連帯感と高揚感によって蔽すといえる。無力感と高揚感、しかしどちらも専門家が必要だということにおいては一致している。
では真に政治的となるためには、
自己が抑圧しているもの、話したくもないし、聞きたくないものを、明るみに出し、それと折り合いをつけるのである。この自己との闘争こそが、何よりもまず政治的であるのだ。
君にとって僕は君の秘密を知っている主体となっていたのかもしれない。転移を行ったといえるのかもしれない。しかし抑圧しているものが何か明るみになるときに君は救われる訳ではない。
おそらく大事なことは隠されていないのだ。インテリぶって、君を諭そうとした僕に対して、怒りをぶつけること。小学生の頃僕に対して跳びかかって胸ぐらを掴んだあのときと同じように。 人生とは反復である。反復によって僕たちは成熟していくのだ。

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