ラカンはこの言説を自衛のために使用すると言っている。彷徨う理由は、普通に考えれば、正しい道や、正しい答えなどを知らないことによるはずだ。だから彷徨うのであろう。そうであるならば、正しい道や、正しい答えを知っている人こそ、騙されないと言えるはずである。だが、ラカンはそうは説いていないような気がしている。騙される人々とは、正しい道や、正しい答えが何かを知らない。それは確かだろう。しかし、一方的に与えられる情報や広告、サービス、専門家の言葉の中に、唯一の正解があると盲目的に信じているという点においては、ある意味で、答えの居場所を知っているといえるのではなかろうか?そのために、一時的には道に迷わないと言えるのではなかろうか。そして、そうした答えや、サービス、ワクチンなど、それを、一度信じて受け取ってしまったからには、もはや、それを疑い、道を引き返すことができないようになってしまうのではなかろうか。
個人的に最近思うことは、一度そういうものを受け取ってしまったら、それを切り捨てたり、自分で修正することができない世界になっているような気がする。それは、製造者の製造の段階においても言えるし、使用者の使用の段階においても言えることである。家、車、電気製品、どれも、一部の故障が、その部品の取り換えでは、修復しえないものになってしまっている。人間自身もそうではないか?それは個人の責任だけではない。
そういう観点からみると、彷徨うことは、正しいとされる道や答えを、意識的、無意識的に避けつづけることを言うのかもしれない。もしくは、自分の選んだ道、答え、習慣に執着しないということなのかもしれない。はたまた、彷徨うことは、騙されつづけているということなのかもしれない。しかし、それを知らないことなのかもしれない。このラカンの言説に、時折舞い戻って、何度も考え直し、このブログのページに追加していこうと思う。(2025年6月10日)
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