欲望機械 その①

欲望機械とは二項機械のことである。二項機械とは、ひとつの機械がもう一つの機械に連結している状態のことである。この連結は二つの機械の間で閉じてしまっているのではなく、一方の機械は第三の機械と連結することで、……と、……と、というふうに二項系列を線形状に伸ばし、流れを生産する。これが欲望機械である。母乳と口も欲望機械である。糞や尿は川や土の中に流れ込む。その流れを前提にして、あらゆる切断と連結は生じる。糞や尿の流れは、便器機械という技術機械によって、切断、採取され、下水道や浄水場を経て川や海へと連結する。機械とは全く隠喩的ではなく、自然物と人工物を区別することなく存在するのだ。便器機械の使用=消費の只中において、こうした流れを生産するのだ。つまり、消費はそのまま生産であるといえる。

「機械は、その機械が接続されている他の機械との関係においては流れの切断であるが、その機械も、それに接続されている別の機械との関係においては、流れそのものであり、流れの生産である。まさにこれが、生産の生産という法則である。」(『アンチ・オイディプス』)

長い髪の流れが、精液の流れと連結する。「見る」というのは、この連結の流れを切断し、説明することでしかない。「見ている」のは「私」であるということは、機械の連結という流れの純粋経験、直に存在するものに比べれば、事後的事象にすぎない。長い髪が風に揺れ、流れるのを見て、私の心がときめいた、というのは決して純粋経験ではないのだ。直接に存在するのは、欲望機械の流れである。

欲望機械は、赤子の口機械と母の母乳機械と連結するのとそれほど遅くなく、天上の星々とも車や電車、新幹線とも身体機械を連結する。それは、「パパ」や「ママ」と「私」を連結するよりも、ずっと早く連結するのだ。車や電車を運転することは、連結することの一つのであるが、欲望機械がとても窮屈に制限されて、技術機械(ハンドル、アクセル、ブレーキ、信号や車道との連結)と連結しているといえるのだ。それに比べると、子供が、身体を車や新幹線と連結するの欲望機械の連結とは体制を異にするのである。さらには、子供は動物や草にさえなる。しかし、それは一匹の動物や、一本の草ではなく、動物の群れや大草原ともなりうるのである。

「私」なる一個人、一主体は決して欲望機械の主人どではない。むしろ「私」なるものは、欲望機械があらゆるものと連結する可能性を喪失し、ある制限された檻の中に閉じこもっているときに生じるのだ。つまり、流れが閉じられ、窒息したとき、「パパ」や「ママ」が唯一の対象に固定されたときに、「私」なるものも生じるのだ。「親ガチャ」なる語も、欲望機械の流れの窒息状態のなかで、両親との三角関係に雁字搦めになっているみじめな「私」から生じるのである。これは欲望機械が抑圧されているのである。オイディプスは、決して本来的に存在するのではなく、精神分析、ひいては資本主義における社会機械が欲望機械を抑圧するために作られたにすぎないのである。

資本主義に抗うためには、社会機械の要請をうけて生産された技術機械が、欲望機械をただの技術機械の使用者、消費者になり下げることについて抵抗しなくてはならない。ゆえに、そうした「技術機械による抑圧を見る私」を形成すると同時に、それと同じ「私」を解体しなければならない。そして、技術機械と新たな形で欲望機械を連結し、技術機械に欲望機械を注入することによって、消費を生産へと変え、流れを拡大する必要がある。

それを「見る」指標というのは、子供の欲望機械が如何にして機械としての子供へと変容するかである。電車や飛行機になることが、運転手へなること、草や花になることが、花屋さんになることへと。もちろん、運転手や花屋さんになることが悪いと言っているのではない。如何にしてこの変容が生じるのかということに目を向けることが重要なのである。これは、つまり欲望機械の連結のプロセスが、社会機械の中での役割や目標へと変容することを見ることであるからだ。こうしたプロセスの変容こそが抑圧であるのだから。「私」なるものが、欲望機械の主人かのように思われるのもこのときだからである。

「私」なるものが連結のプロセスを「見る」とき、その連結の表面として連結に付き添い、その一部になることと、その主人になることは、完全に異質な体制である。プロセスを過程として、目標のための下僕にしたり、または失敗したときに、結果より過程が大事というように過程そのもの目標にしたときに、子供の窒息が生じ、子供機械が生じるのだ。

この意味で、社会機械の一部である学校機械と連結する家族機械は共犯者となり、子供機械を作り続けている。学校は「学ぶため」の社会的機械であると同時に、労働者となるべく子供機械を生産する。学ぶことは、確かに欲望機械があらゆるものと繋がりうる可能性を広げる。しかし、欲望機械が資本主義社会における学校機械を拒絶することには、何か真理があるに違いないのだが、学ぶことを拒否する欲望機械さえも、学校機械はその流れを再領土化し、工場へと子供機械を労働者として送り出すのだ。

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