居場所がないというのはどういう意味だろうか?
存在する場所は家庭なり、学校なり、職場なり、ありすぎるほどにあるはずだ。そうした場所は、ほとんど努力することなく用意される。しかし、そうした場所のどこにも居場所が見つからないのである。つまり、存在することが認められている場所は多くあるにもかかわらず、その中で存在する「あり方」の許容される範囲がとても小さいのである。ただ単に存在するだけでは、そこは居場所とはならない。また、客観視できるルールなどは許容範囲の大枠にすぎない。許容範囲とは不可視のものである。不可視の行動地図と言えるかもしれない。性格の良し悪しも許容範囲を前提とし、それの内部にあるか、外部に逸脱するかによって、反映されるものにすぎない。こうした許容範囲は、家庭、学校、職場にそれぞれ別様にあるのだが、しかし、例えば家庭の許容範囲は、学校における許容範囲の外部に逸脱してしまった子供の完全な避難所として存在するわけではない。家庭の許容範囲は、学校の許容範囲と多く重なり、同じ原理で構成されている。ゆえに不登校になった子を許容する家庭の許容範囲はとても小さいと言えるのである。「学校を辞めてどうやって将来やっていくの?」この言葉が持つ意味は、家庭は学校のように教育を受ける場所ではなく、職場のように金を稼ぐ場所ではないことを意味している。しかし、それゆえに、家庭は外部に晒され続け、外部の許容範囲を自らの許容範囲にしている部分があるのだ。家庭、学校、職場などは、不可視の許容範囲でつながり合い、どこか一か所で居場所を失った者の完全な避難所として、「あるがまま」にある仕方で存在することが許容される場所とはなっていない。逆に、これらの場所は、「あるべき」あり方を連携して作り出すようになっている。こうした許容範囲の区画整備が居場所の喪失を作り出している。以上のことから、居場所がないというのは、存在することが認められている場所は、複数あるにも関わらず、「ありのままにある」あり方が許容されている場所がとても少ないということである。
しかし、外部からの完全な避難所とは、こうした区画整備が完了した現代社会において、理想的なものなのだろうか?家庭のみが「ありのままにある」ことのできる場所になっているということは、それは極端には、引きこもりを意味することになる。そうなると、結局は存在のそのものの否定につながりかねない。しかしそれでも、居場所というものは「ありのままにある」ことによって即存在することが認められる場所であろう。それは理想にすぎないと言われようと、何かからの避難所としての居場所を求め続ける限り、避難所は居場所のない場所つまり非居場所を前提としてしか存在できないままであるだろう。
「あるべき」あり方は、今後ますます区画整備されつづけるだろう。それは法によって整備されることに間違いはない。しかし、それ以上に、サービスやシステムなどによって侵入してくる。子供部屋の見守りサービスという管理装置、車載カメラによる相互監視など、子や自分を守るという目的で外部に一種の壁を作るのだが、そうした壁こそが外部とシステム的に繋がり合うことを強化し、結局は使用者自体がシステムの一部となるのである。マイナンバーカードやコロナワクチンなど、小さな分断の中に種を蒔くようにしてシステムは根を生やす。また、家庭は、単なる家という空間になることで、癒しやエンターテイメント提供するサービスによって壁を築く、そして扉の外部に対して完璧に武装するだろう。しかし、その中で何かを作り出すことができるのはわずかな人に限られるため、家と敵対する外部の場所に、依存しながら壁を作らなくてはいけない。また、居場所がないことを前提に、産み出される癒しのサービス、プチ贅沢品なども、非居場所で、居場所作りのための金を稼がなくてはいけないという悪循環を生む。
職場に金を稼ぎに行き、学校に教育を受けに行き、家庭で食事や睡眠をする。私という存在がまず初めにあり、それが、各場所を移動し、それぞれの場所で「あるべき」あり方ですごすことによって、対価を得ようとする限り、「ありのままにある」ことのできる居場所探しは、自分探しの旅と同義であろう。しかし、家庭、学校、職場は、不可視なる許容範囲によって「私」なるものを形成し、その中に秘密を閉じ込める。その秘密とは普遍的な秘密である。みんな同じように思っていることは分かっているにもかかわらず、自分だけが異常なのかもしれない。「あるべき」あり方を拒絶したいとみんなが思っているにもかかわらず、そう思っているのは自分だけではなかろうかという不安。これは自慰の秘密と同じである。これが自己の中に種を撒かれ、成長し、自己そのものとなっていくのである。この秘密を否定することは自己を否定することだ。逆説的であるが、この自己の否定こそが現代社会において居場所をつくることに重要だと考えられているのである。しかし、それは居場所作りとはならない。なぜなのだろうか?結局それは自己を解体するまでに至っていないということである。
自己の解体とは何であるか?
それは働く機械となることであり、学ぶ機械となることであり、はたまた、作物を作り、調理し、食べる機械であり、眠る機械になることである。
機械は、働くのだが、食べるために働くことはない。
また、学ぶのだが、働くために学ぶのではない。機械において目的連関は存在しない。ゆえに、機械群の中心に自己なるものも存在しない。
働く機械は学ぶ機械に連結することは当然ありうる。しかしその連結は協働であり、もっと正確に言えば同盟である。また、学ぶ機械は、食べる機械や眠る機械と同盟を結ぶ。こうした同盟関係が機械状のアレンジメントを生む。学ぶことの意味は、このアレンジメンにおける位置関係によって決まる。「何のために勉強するの?」という子供の問いは、学ぶことの外部に目的をもつことである。また、単純に学ぶことが楽しいから学ぶというのでもない。機械状のアレンジメントにおける学ぶ機械は、その機械の位置によって学ぶことの意味を変える。しかし、何か機械の外部の目的のためではなく、機械同士の同盟のために学ぶのである。この同盟の生じる場所こそが居場所なのである。それが身体の外部か内部かということはあまり重要ではない。道具とは身体の内部とも外部とも言えない。その道具こそが居場所になることもあるだろう。もちろん、働く機械と食べる機械の同盟が田畑という外部環境に居場所を求めるだろう。学ぶ機械と働く機械の同盟は『自分がしたことから学ぶ』という現象を生む。これはすでに居場所であり、卓越という居場所である。働く機械、食べる機械、眠る機械は、産業主義社会における、明日またきつい労働に耐えるための身体の再生産とは無関係である。よく働かなければ、よく食べられず、またよく眠れない。これが同盟である。ところが、産業主義的社会の区画内では、働くこと、食べること、眠ることは身体の再生産と余暇とつなぎ合わされている。また、健康食品やコンビニ弁当、アルコール度数の高い缶チューハイや缶コーヒーの微糖などを媒介しながら、区画整備された非居場所と居場所を転々と移動することによって、あるべき行動へと行動を制限された中で、各場所でその目的を遂行しつづける人生を過ごしていく。これらはシステムの網目と言えるし、依存関係とも言える。こうした中で身体を壊すとは、機械状の不調和ではない。ゆえに同盟の不調和ではない。不意の到来となってしまっているのである。
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