良い道具

少しばかり値段のする深型のガラスボウルを買った。ARC INTERNATIONAL というフランスメーカーのものである。縁がわずかに厚くなっており、そのガラス越しに食材やキッチン道具の投影が美しく映える。私は高級な道具を揃えたいという考えを持っているわけではない。このボウルにしても2000円そこそこで、必ずしも良い道具とは限らない。私の道具に対して持つ考えは、100均やすぐに使い捨てするような道具を使いたくないということに尽きる。このガラスボウルを使って、クリームチーズを作ると言ったときの仕事の同僚の返事は「クリームチーズって作れるの?」という想定内の返答と同時に「なんで100均のガラスボウルじゃダメなの?」という私にとって想定外の返答であった。私は「綺麗だから」という自分自身腑に落ちない返事をしてその場をやり過ごした。しかし、結論に至らずとも、なぜ自分がそのような考えを持つのかというおおまかな回答、その考えが何と繋がっていくのかというおおまかな方向性だけは自己に示したく、この文章を書いている。

想定外の同僚の問いが、良い道具についての考察の初端となった。そして、とりあえずの回答もこの想定外という言葉によって締めくくられる気がする。とにかく素描することだけに集中し、飛躍を恐れずこの文章を書こうと思う。具体的な考察は後に任せようと思う。

100均などの道具は、その使用者をあらかじめ想定された通りの方法に則った使用者にするが、使用者を想定外の生産者にすることはない。良い道具とは、使用者を自由にする。しかしその方法は、想定される機能の多様さによるのではない。美しさなどの、機能とは異なる価値を媒介にして、使用者がその使用においては気づかないようにして、使用者を生産者にする。良い道具とは、もはや生産自体に直接関わらず、ただそこに在ることによって、それとは別のものを使用者に関係付け、生産の自由を与えるのだ。

良い本とはその好例だ。良い本はそれが読まれている最中においてさえ、風通しの良い窓のように、私を本の外の世界へと連れ出す。また違う人格や異なった時代を生きさせることさえ可能にする。そのとき、必死に目が追っている白紙を背景してに印刷された文字さえもが、浮かび上がってくる世界の背景となっているのだ。

良い道具とは、工具にしろ、家具にしろ、楽器にしろ、私の使用の想定内を逸脱し、方法は種々異なるにしろ、背景となることによって、別のものを使用者と関係づける道具のことである。アレンジメントや創造といったものが何から生じるかというと、道具の想定内の使用からではないだろう。そうではなく、想定を超えて背景となった色々な道具たちの関係によってこそ機械状のアレンジメントは駆動するのである。

雑記
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