リンゴの木箱

「お兄さん木好きやろ?」

いつもお世話になっている商店街の八百屋の店主が言った。

「はい好きです。自分もそのことに最近気づきました」

私は答えた。三十六になって気づき始めた。自分は木が好きなのかもしれない。それが確信に変わった気がした。とはいえ、仕事帰りにコーナンで家具を作るための木材を買い込み、自転車のかごいっぱいに乗せて八百屋に寄るのを幾度も見られているのだから、店主の質問は当然といえば当然なのかもしれない。またかつて、野菜を品定めする際、野菜を陳列する棚に興味をもってじろじろ眺めているのを指摘されたこともあった。それはリンゴの木箱でできた陳列棚であった。店主は市場で余っているリンゴの箱を店に持ち帰り、表面をバーナーで焼いて木目を浮き立たせ、店の野菜の陳列に使っているのだ。その箱に私が興味を持っているのを店主は気づき、今度余っているのを市場で見つけたら、私のために持って帰ると約束してくれた。それがひと月前くらいだった。それをこの度2箱も頂いた。店主は丁寧に自転車の荷台に紐で縛って積んでくれた。店主はその紐を縛っている際に笑顔で「お兄さん木が好きやろ?」と聞いたのだった。

私は大雨の降る中、小さなビニル傘をさし、荷台には大きなリンゴの木箱を2つも積み、前のかごには買った野菜と雨に濡れたリュックを入れ、ふらふらと自転車をこぎながら家に帰った。その道中私はとても幸せだった。野菜は八百屋で買う。肉は肉屋で買う。野菜の種や植物は種苗店で買う。パンはパン屋で買う。米は米屋で買う。コーヒー豆はコーヒー屋で買う。そして自分で作れるものは自分で作る。それが自分の中で当然のこととなっていた。店主の笑顔が浮かんだ。そして、いろいろな店の店主の顔が浮かんだ。そうした顔の繋がりの中で、私は木を使って何を作るのか?もちろん八百屋の店主のために木で何かを作るわけではない。しかし、そうした顔の中で何かを作る。決して私という人生の中で作り始めるのではない。顔の繋がりの中で家具製作機械は駆動する。自立とは社会という大きな集団の中に自己を適応し、立ち振舞うことではない。自立とは、社会という多数派集団から少数派の顔の見える繋がりへと生成変化することである。そしてその中で許された道具を使い何かを生産することである。リンゴの箱と余った木材をくっ付けて玄関脇の棚を作る計画が湧いてきてきた。アレンジメントはリンゴの木箱と余った端材を繋ぎ合わせることだけに限らない。八百屋の店主の顔と定食屋のお母さんの顔を繋ぎ合わせ、そして自分の顔をそこに繋ぎ合わせることもアレンジメントの一部なのである。今度の土曜日、一日かけてその家具を作ろうと思う。その日の昼飯は、作っている家具の自慢をしながら、定食屋のお母さんの料理を頂こう。

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