玄関で宅配便の荷物を受け取り、サインをしようとすると、
「これだけで大丈夫です」
と宅配員のお兄さんは言った。私は別に嫌な気はしなかった。しかし少し気にはなった。宅配員の「これだけで大丈夫です」というのは、受け取りだけでサインが不要ということを意味した。私はそれを反射的に理解した。そして宅配は即座に完結し、私がドアを閉めきる前に、宅配員はアパートの廊下を去っていった。
「大丈夫です」という言葉が日常的によく使われる理由の一面を垣間見た気がした。それは「大丈夫です」という言葉が行為遂行語だということである。「大丈夫です」という言葉は命令や伝達等を意味せず、もしくは意味したとしても、それ以上に発話者が発話すると同時に行為することに重点が置かれているのである。つまり「大丈夫です」と発することによって、相手や自分、もしくはその両者を大丈夫にするのである。「愛している」という言葉は、発すると同時にその相手を愛する。それは行為そのものであることを意味している。何かを命令し、見返りを要求するのではない。「愛している」と言葉を発することで、恋愛の空間、時間を作り出しているのである。しかし、「愛している」と違って「大丈夫です」は、最も早く相手や自分、もしくはその両者を安心させ、行為を終わらせるための行為である。そうであるがゆえに、相手と共有しうる時間を経済的なものへと変えてしまう。
言葉によって行為させられること、その経済的合理性の身体への侵入から自分を守り、言葉を選ぶこと、言葉によって行為しうることが重要である。もちろんそれには機械のアレンジメントが必要である。
追記
歌手のcoccoの口癖である「大丈夫」という言葉は、祈りの行為であるように思われる。彼女はけっして自分を安心させるために「大丈夫」と言っているわけではない。彼女にとって、もはや自分がいなくなるよう場所を「大丈夫」と祈ることによって、そこに見出しているように思われる。coccoの「大丈夫」には「愛している」という行為へのつながりがある。そして、またそれが不可能なものであるということへの懺悔がある。それゆえにいつまでも「大丈夫」をファンへ歌として届けているのかもしれない。かつて「うんこ」と自ら称していた彼女の歌は、今も「うんこ」でありつづけ、同時に祈りでもある。
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