「十九世紀の異常者は、怪物、矯正不可能な者、自慰する者という三つの形象の後裔である」
異常性という領域は、犯罪でもなく病気でもないが、その両者をつなぎ合わせるものとして、精神医学の台頭とともに十九世紀の司法の中に現れた。この異常性という領域は、怪物、矯正不可能な者、自慰する者という、異なる領域、異なる空間に存在していた三つの要素を自らの中に併合することによって誕生した。フーコーは今後の講義で、その併合がどのような権力のテクノロジーによってなされたかを詳細に解説していく。その前提として、三つの要素を簡単に説明している。
第一のものは「怪物」という形象である。
「怪物は、その存在そのものとその形態とが、単に社会における法律に対する侵害であるばかりでなく、自然の掟に対する侵害でもあるという、そうした事実にもとづいて規定されているからです。」
怪物は法の外に存在する。しかし、それは単なる法の外ではない。怪物は常に法の外から法を侵犯するものとして出現する。また怪物は、警察・司法権力のもつ拘束、処罰権力といった法の侵犯に対する対抗措置を無力にする。ゆえに、怪物は警察・司法権力の限界を位置づける存在なのである。そうした存在に対し、社会は裁く手段を持たないがゆえに不安を覚えるのである。そこで社会はより強力な権力を要請することになる。または、そうした存在を社会の中に併合し、その内部で無力な存在として扱おうとする。
怪物は同時に生物学的存在である。怪物は奇形、障害、欠陥という生物カテゴリーに区別できる。さらに、混成物という生物カテゴリーにも区別できる。本講義で重要なのは混成物としての怪物である。混成物には、馬や牛の身体をもつ人間つまり種の混成、生と死の混成、さらには男性と女性の混成などがある。
「怪物性が存在するためには、そうした自然の境界に対する侵犯、分類表としての法に対する侵犯が、市民法や宗教法や神法の適用不可能性を引き起こすようなものであることが必要です。すなわち、怪物性は、自然の掟の無秩序が、市民法や教会法に接触し、それを転覆させて脅かす、その場所にのみ存在する、ということです」
第二のものは「矯正すべき人物」という形象である。
「怪物が定義上一つの例外であるのに対し、矯正すべき人物の方は日常的な現象なので、この人物は——規則に従わない者として規則的なやり方で現れる、という特徴を呈示します。」
ここでいう規則というのは教育の規則、広く言えば矯正のためのあらゆる規則のことを意味する。それは、家庭において馴染み深い訓育のためのあらゆる技術、あらゆる手続き、あらゆる努力のことである。こうした矯正を介することによって、矯正の内部規則に従わないものが、それゆえ規則的に生みだされるのである。
「矯正すべき人物は、したがって、矯正不可能であることによって定義されます。しかし、逆説的にも、矯正不可能な者は、矯正不可能であるというまさにその理由によって、自分の周りに、家庭において馴染み深い訓育や矯正の諸技術を超えた、いくつかの特殊な介入を呼び寄せます。すなわち、再度の訓育や再度の矯正のための新たなテクノロジーがそこに呼び出されるということです。」
こうした「怪物」であると同時に「矯正すべき人物」という形象が、19世紀に始まる精神鑑定の諸実践に引き継がれ、通俗的で精気を欠いたものという存在様相を帯びることによって、犯罪と病気の余白に位置する異常者を形成していった。
異常者の第三の祖先は「自慰する者」である。
自慰する者は、怪物のように例外的=非日常的ではなく、矯正すべき人のように日常的でもない。しかし、自慰する者は、すべての人に共有されているにもかかわらず明るみに出ることのない秘密をもつ存在者であるがゆえにその存在は普遍的である。そして、その普遍的な存在は、寝室、ベッド、身体、両親、兄弟姉妹などからなる最も隠された空間に出現する。誰もが行っていると想定されるがゆえに普遍的である。しかし自分が日常的に自慰をしているからといって、誰もが日常的にやっているとは知り得ず、秘密のまま明るみにされないがゆえに、日常的ではない。自分が日常的に行っていることを、すべての人が日常的にやっていると共有されない限り、自らの隠された日常は非日常的なだけでなく、異常とさえ思われてくるのである。
「皆に共有されていると同時にそれをうち明けるものは誰もいないという、このほとんど普遍的な秘密は、考えられうるほとんどすべての病の原因となりうるものとして、さらには現実にその原因をなすものとして措定されるのです。」
怪物が社会の外から危険を導き入れるものとするならば、自慰する者は自らの中に危険を生み出すと言えるだろう。そしてそれは、日常的に出くわす矯正すべき人物を否定することによって不安を払拭することができるような類のものではない。絶えざる主体の同一性を内側から揺るがし、同一性に亀裂を生じさせ、自己に対する不安の原型を形作る。そうした不安の原型は、万人が怪物や矯正すべき人物へと自らを繋ぎ合わせ、さらには異常者へと結びつけさせることにもなりうる。
「しかしそれでもやはり——そしてこれが、私が強調したいと思っている重要な点のうちの一つなのですが——これら三つの形象は、十八世紀そして十九世紀の初めに至るまで、完全に区別され、分離されたままであるように、私は思われます。そして、人間の異常性にかかわるテクノロジー、異常者にかかわるテクノロジーと呼ぶことが出現するのは、規則性を備えた知と権力の組織網が確立し、それによって三つの形象が同一の規則性のシステムにもとづいて結びつけられたり包囲されたりする、まさにそのときです。」
両性具有者は、男性と女性の二つの性の混成物であるために怪物とみなされていた。そして十七世紀の初頭までは、火あぶりにされていた。つまりその存在そのものが法を犯すものとして処罰されたのだ。その後、十七世紀から十八世紀にかけては、両性具有者であるだけでは有罪とならなくなった。その代わりに、支配的である性にふさわしい振る舞いを違反することが処罰対象となった。つまり、処罰対象が「あること」から「すること(=ふさわしく振舞うこと)」へと位置がずらされたのである。その背景には、国王の処罰権力の無際限性から国民国家の処罰権力の経済性へと移っていったことに起因する。そして、もう一つ処罰対象の位置をずらした要因がある。
「一方では女性の宗教的かつ経済的な神聖化というテーマと、他方すでに重商主義であるようなテーマ、すなわち、人口に関係づけられた国家の力という厳密に経済的なテーマとが、互いに直接結合されているのがわかります。つまり、女性は子供を産むがゆえに貴重な存在であり、子供は人口に貢献するがゆえに貴重な存在であって、いかなる「恥じらいの沈黙」もそれらの存在を救うための知を妨げてはならない、というわけです。」
古代から女性の存在の軽視、特に女性器への侮蔑はつづいていた。しかし女性が国家にとって大切な存在になって以来、男性器を引き付ける魅力を放ち、淫放へと男性を誘う女性器のイメージは、神聖かつ国家の宝へと変わっていた。そうすると、両性具有者は、支配的である性にふさわしく振舞うだけではなく、支配的な性と生殖器の関係が権力の管理対象となっていった。まず、子を産むための生殖器が第一に存在し、心の中の性つまり自認する性が第二に存在し、生殖器が示す性に、第二の存在が従うか従わないかが問題とされるようになっていった。それに従わないということは、もはや、両性具有者という自然のカテゴリーの違反者ではない。それは法的かつ道徳の違反者であった。これは十八、十九世紀の国民国家の中で機能した権力のテクノロジーが、両性具有者を包囲し、その性器について恥じらいもなく言説を作り出し、両性具有者に道徳的な異常者という存在様相を被らせたことを意味する。
両性具有者はそれが問題とされはじめた当初から男性と女性の混成物つまり自然のカテゴリーに属した。現代においても、それは同性愛者などと称され、依然として自然のカテゴリーに属している。また、男性の身体特徴をもつにも関わらず、女性のふるまいをすることは、かつて法的カテゴリーの処罰対象であったが、現代においては処罰対象であることを止め、法そのものを動揺させるに至っている。同性婚の問題などである。さらに現代においては、両性具有者は多様性理解の象徴として道徳性のカテゴリーにも属している。しかし、ここで問題が生じる。同性愛者は、国家の宝である子を産む能力を持たないという意味において道徳的カテゴリーに属し、それは現代までつづいているからである。ゆえに両性具有者は同性愛者であることによって、道徳カテゴリーの中で、認めるべき、認めることのできない者として存在しつづけているのである。こうしたものが、両性具有者という存在の怪物から矯正すべき人物、さらには道徳的異常者をへて現代へといたる一種の考古学をなしている。
「同性愛において同性愛者でない者たちをもっとも困らせているのは、思うに、ゲイの生活スタイルなのであって、性行為ではないのです。(…)ゲイたちが、他の人びとによって推奨されたモデルにまったく合致していない関係であるにもかかわらず、強度をもった満足すべき関係を成立させてしまうこと、そうしたことに対する共有された恐れについてとりわけ話していたのです。どのようなものになるかまだ予見できない関係、そうした関係を同性愛者たちが想像しうるという考え、これこそ、多くの人びとにとって我慢ならない考えなのです。」(『性現象と孤独』より)
こうした、認めるべき、認めることのできない者、我慢できない者に対し、私たちは同一性を保とうとして、そうした怪物性を矮小化するために彼らを名付ける。「LGBT」というふうに。しかし、「LGBT」と名付けたものがなんであるかを理解していない。またそのように名づけることによって、自分たちが理解していないということを理解していない。それは「サステナブル」や「SDGs」にも言える。また「キモイ」などといって排除しようとすることもあるだろう。さらには、正常化=規範化権力の侵入を許し、各人の差異を暴き立てようとする場合もある。
コロナウイルス感染者は、家の中で隔離生活を続けている限りでは生と死の混合物でしかない。また街へ出て大勢の人と接触したとしても、自らを感染者だと表明しなければ、家の中で隔離生活しているのと同じである。しかし感染は瞬く間に広がった。感染しているにもかかわらず、仕事や行楽、不要不急の外出をする者が大勢いるということが世間の常識となった。そして、それは自慰する者と同じく、うち明けられることのない普遍的な秘密となっていった。すると、そうした普遍的な秘密が社会を不安に陥れることがこの度のウイルスパンデミックで明らかになった。こうした不安は、お互いを監視し合うことへつながっていったのである。そして、監視の代行つまり正常化=規範化権力の侵入を、私たちの身体の些細な差異にまで許すこととなった。マスクの装着、飲食店での体温測定、アルコール消毒、そして接触確認アプリ、ワクチンの接種証明に至るまでの介入の手引きをさせたのは、自慰する者という形象がもつのと同じ普遍的な秘密から生じた不安である。電車や店内で咳をした人へ送る冷たい視線が権力の身体への侵入でないと誰が言えようか。その反面、法と接触するのは、「俺、コロナ」と言って他者に接近したときなど非常に限られることもわかった。コロナウイルス感染者だと自ら断言し、医療従事者以外の者に接近したならば、患者は怪物的人間となる。自らが怪物であると断言するときに、怪物は理解可能性を生む。しかし、その存在自体は、許容できるものではなく、理解不能なままである。ゆえに、怪物は自らが出現するとき、理解不可なものを理解可能性として開示する存在である。しかし、感染者は、法そのものを不安に陥れることはない。すぐに警察が呼ばれ、業務妨害罪等で処罰される。コロナウイルス感染者は、それゆえ怪物的要素を宿しているが、法をその存在ゆえに犯すということはない。また、それは同時に警察が処罰できる感染者の対象も非常に限られていることを意味した。ゆえに、私たちはお互いを監視し合ったのである。マスクをつけないものを監視し。ワクチンを接種していない者を監視し、感染対策をとっていない店舗を監視する、というふうに。この教訓は、今後の非常事態にも生かせるだろう。正常化=規範化権力は、非常事態宣言を出し、権力を政府に集中できないときは、国民自らがお互いを監視するようにしむけ、国の分断を用いるのである。
医学の発展と社会保障制度の発展により、家族と別れ、社会と縁を切り、死へと向けて放浪する者、熊野詣を行った癩病者のような存在を、今回のパンデミックで見ることはなかった。しかし、その代わりに、コロナ患者という、善行の対象とは決してなることのない者たちが、道徳的カテゴリーとしてつまり自宅隔離を違反する者として街路を歩いたのを私たちは見たのである。いやそれが正確に誰であるかはわからない。コロナ陽性者であることを芸能人たちが公言することは、ある種の免罪符となったのである。
私たちは、怪物が自らを怪物と断言することに出現するのと同様に、怪物性が隠すことによって出現することをこのパンデミックによって知ったのである。しかし、私たちは長らくそれを、犯罪者を映し出すテレビの中で見てきたこと忘れてはいけない。
テレビは出来事を映し出すことによって、その背後にある本質を隠す。これはブルデューの言ったことである。
「これから示すことは、いかにしてテレビは、見せながら逆説的に隠すのかということです。テレビは隠しています。それが行っているとされていること——つまり情報を与えること——をするためには見せなければならないはずのものとは違うものを見せることによって隠しているのです。あるいは見せるべきことを見せるとしても、人々がそれを見ないようなやり方で、あるいは現に見せているものが意味を持たないようなやり方で見せることによって、隠してしまうのです。あるいは、見せているものが現実とはまったくかけ離れた意味を帯びるように構成することによって隠してしまうのです。」(『メディア批判』)
それは何重もの仕方で行われる。戦争、災害、事故や殺人など私たちが直接関わることのできない出来事を放送し、身近にもなりうる社会を手に届かない世界として宙に浮かせ、私たちをそこから物理的に引き離すことによって隠す。つまりニュースが映す世界で起こっている出来事は自分には変えることのできないものであり、専門家に任せるしかなく、素人は黙っていなければならないという無力さを抱かせることによって隠すのである。マイナンバー制度、インボイス制度、ワクチン接種の推奨などは、今日にでも行うことのできる市民的かつ民主的な権利の行使に関する情報を隠す。知識や教育は将来のことを語るだけで、自分が今もっている権利や能力から何を生み出すかを伝えない、また自分がしたことから何を学ぶかということの助けとなる情報を与えない。つまり私たちが思考するために必要な時間を、視聴に要する膨大な時間によって隠してしまうのである。
テレビのニュースで、犯罪者の性格について「大人しい」「真面目」「礼儀正しい」と語る言葉をよく聞く。テレビは犯人の表の顔を切り取って放送することによって、隠しているのはその人の裏の顔や本性ではない。裏の顔や本性というものがあるかどうかはさておいて、そうしたものが映し出されることはない。だからといってそれが隠されているわけでもない。表の顔を切り取って映すことによって、それは同時に裏の顔である怪物性を隠していると想定される犯罪者の異常性を映し出している。つまり自慰する者と同じように、犯罪者の表の顔を語る言説には、打ち明けられることのない普遍的な秘密があるかのように映し出す。そしてそれによって、その人間が置かれていた状況や社会構造の本質が隠されているのである。これは、前回の書評で述べた言語による表象=再現前化である。そしてブルデューのいう象徴暴力を生み出す。
怪物は自らを怪物と断言することによって、理解可能性を開く理解不可能なものである。テレビは、そうした怪物をすでに理解したものとして通俗化した形に切り取って出現させる。稀少性や法的ないし生物的なものの侵犯としての怪物性を剥奪し、日常的なものとしてテレビの画面に映し出す。私たちはそれを、異常者として見るのである。そして、私たちの身の回りの、変えることのできない世界の中に、同様の異常者を見つけ出すように、仕向けられているのである。そしてその異常者とは、自分自身であるかもしれないと疑うことを止めれないのである。自分が異常者であるかもしれないことを疑うのを止めようとすれば、それだけ、他者の中に異常を見つけようとする。これが、自慰する者の普遍性である。そしてこれが、相互監視へと行きつくことになる。
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