機械のアレンジメント

私にとっては、哲学者になること、ギタリストになること、農家、家具職人になること、主婦になることが重要なのではない。哲学機械であり、ギター演奏機械であり、農業・家具工作機械であり、料理、洗濯、掃除機械であることが重要である。哲学機械は、ペンとノート、椅子と机、それにコーヒーの中で、あらゆる本を往来し、その瞬間、瞬間の記憶を繋ぎ合わせ、文章を紡ぎだしつづける。ギター演奏機械は、ギターとアンプ、ピックとシールド、チューナやメトロノーム、楽譜やオーディオ、録音機器といった機械の中で、指機械を動かし、腕機械を振り、一音一音を奏でつづける。「(音と音の)間とは、(その静寂とは)祈りの時間である」と、尊敬するドラマーである朝倉聖から教わった。次の一音を美しく響かせるために、その間において、どれだけ祈ることができるか。先生の声が、数々の機械アレンジメントの中で響きわたるように、私も精進しなければいけない。農業・家具工作機械は、土や太陽や水、プランター、作業台、電気ドリル、サンダー、ワックス、柿渋、鉋やノミ、ハンマーといった機械の中で、種を蒔き、水をやり、木材を加工しつづける。調理、洗濯、掃除機械は、冷蔵庫、なべ、フライパン、へら、お玉、包丁やまな板、炊飯器、調味料、洗濯板、物干し竿やハンガー、洗剤、ほうき、ちりとり、ゴミ袋、コンポストといった機械の中で、野菜、米、肉を調理しつづけ、電気やガスをなるべく使用せず、部屋をきれいにし、環境破壊につながるゴミを出さない。こうした機械の中に、お金や夢や希望は存在しない。また目標といったものもその中心や将来には存在しない。機械の中にあるのはお互いにつながりあう機械のアレンジメントだけである。ギター機械やアンプ機械と並んで指や腕機械もそこに繋がっているのだ。そして常にその配置や掛け合わせを変えることによって機械は駆動しつづける。そこには教育と実践の辟易する隔たりの代わりに、自分がしたことから学ぶということがある。しかし、それはスキルや経験といった身体や脳に刻まれた記憶としてあるのではない。あるのはただ、機械の繋がりによって張り巡らされたアレンジメンである。ゆえに知識やスキルや経験を語る言葉、さらには最近はやりの紋切り型の「サステナブル」や「SDGs」などの言葉はない。

「この勉強は将来社会に出て何の役に立つの?」という子供の問に対して、「勉強すれば何が将来役社会に出て役に立つのかわかるようになる」という大人の答えは間違っていない。確かに知識は価値に先立つ。何に価値がるかを知っていない限り、価値あるものは眼前に現れないだろう。しかし、重要なのは勉強によって得られた知識ではなく、機械のアレンジメントである。大人の答えがアレンジメントの中より響いてこない限り、その言葉は「紋切り型」の言葉と同じであり、コミュニケーションは、その言葉が発した時点で完了してしまう。ブルデューの言うように「コミュニケーションがないがゆえに、即座のコミュニケーションがある」と言える。機械のアレンジメントが駆動することによって将来は来る。そしてそのアレンジメントこそが価値を産むのである。あるのは機械の掛け合わせだけである。主婦が冷蔵庫に残った食材であり合わせの料理を作るように、機械は互いに結びつき合いながら、アレンジメントを生産しつづける。「書を捨てよ、町へ出よう」という書籍のタイトルは、同時に素晴らしい言葉である。本の中にある世界の複写に留まっているわけにはいかないのである。まず本は、世界の複写であることを止め、機械の一つとなり、世界にあるさまざまな機械とつなぎ合わなくてはならない。そうした機械としての本を持ち「書を持って、町へ出よう」と言いたい。青年たちは町へ出なくてはいけないだろう。冷蔵庫の中の食品のアレンジメントに励んでも、部屋のインテリアのアレンジメントに励んでも、それだけでは十分ではない。機械のアレンジメントは、会社と人材、恋人や友人を結びつけるマッチングアプリの代替機械となりうるであろう。そして社会の管理機械を不要にするだろう。単なる消費機械となることを拒絶することによって、またYOUTUBEやテレビ機械の異常さを拒絶することによって。そして気づくのである。そうした異常さはテレビやスマホの画面が発するのではないことを。そうした異常さは、機械のアレンジメントの不和、不調から生じることを。ゆえに親機械が子ども機械に対して、「スマホばかり見るな」と言っても、スマホ機械に代わる機械のアレンジメントが親機械と繋がっていない限り、子ども機械にスマホ以外の機械を繋ぎ合わせることはできないだろう。

雑記
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